年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生


「職人の技は、自分ひとりのものではなく、借りたもの(親方や先輩に教えられたこと)は必ず返せ(後輩へ伝えなさい)」 中学のときに自分の進路を決めて、“職人”としての道を歩み続ける和田三郎氏。 “時代はどんなに変わっていこうと、職人の技は変わらない”という信念のもとに、消えつつある職人の技を守り、自分が受け継いできた日本の伝統を、後輩たちに伝えていくことに全力を注いでいる。 今年、技能五輪国際大会の世界の舞台で、エキスパートとして競技を審査する。 技能五輪国際大会 建築大工職種エキスパート 和田三郎氏

和田三郎氏は、平成21年春の黄綬褒章を受賞されました。
益々のご活躍をお祈り申し上げます。

私のような一個人が頑張らないと、日本は競技として成り立たないのではと危惧しています

まず、技能五輪国際大会(技能オリンピック)とはどういうものなのでしょうか。

和田技能五輪国際大会は、1950年(昭和25年)にスペインのマドリッドで第1回が開催されました。隣国ポルトガルと共に青年の技術交流をする、というのが最初の目的でした。現在は、職業訓練の振興と青年技能労働者の国際交流・親善等を図ることが目的の大会です。
 今年の大会で第38回目になります。日本が初めて大会に参加したのは、1962年(昭和37年)、スペインのヒホン市で開催された第11回からです。最初はヨーロッパを中心に毎年開催されましたが、現在は奇数年での開催になっています。
 現在の加盟国は、日本をはじめ、スペイン、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ、韓国、アラブ首長国連邦、オーストリアなど42カ国です。

代表選手になるためには、どうしたらなれるのでしょうか。

和田:技能五輪国際大会への出場選手の資格には、年齢制限があり、出場する年に満22歳以下である者となっています。職種は40種類を越えないというルールがあります。
 国内の全国大会では21歳までの人たちが競い合います(※注)。そこで優勝した1人が技能五輪国際大会の出場資格者となれるわけです。私の建築大工職種では、県大会から始まり、全国大会では選手が130人位で競います。職種としては最多数で、その点でも今注目されるようになってきました。個人、専門学校、企業などから、県の予選までは誰でも応募できます。私の住む埼玉県では、毎年70人くらい予選に出場します。日本は木造建築では世界のトップクラスだと思うでしょうが、世界的レベルにはまだまだです。競技大会のための建築大工と、いわゆる職人としての建築大工とは全然違いますからね。

(※注)国内大会に出場するのは「満23歳以下」という条件になっていますが、技能五輪国際大会に出場できるのが「満22歳以下」なので、秋の国内大会を終え、翌年の5月や6月の国際大会へ出場する時に、22歳を超えてはならないのです。ですから、国内大会で優勝した選手が、年齢制限やその他の理由で国際大会へは出場せず、銀メダルの選手が繰上げで出場することもあります。

近年では、1位がお隣りの韓国になっています。どんな点に差がみられますか。

和田:日本と韓国では国の取り組みかたに違いがあります。韓国では、大会のための選手を国が育成しています。日本では生涯大工をやろうという人が大会に出るのですが、韓国ではそうではないようです。韓国では大会での成績優秀者には賞金が出ます。正確にはわかりませんが、例えば、金メダルの人には一軒の家や、大学をタダで行かせてもらえるとか、企業からスカウトされて一流企業に入れるなど魅力的な特典があるようです。競技大会のレベルは非常に高いのですが、職人としての建築レベルは低いようです。


日本のバックアップ体制はいかがでしょうか。

和田:大企業のデンソーやトヨタなどの職種は別ですが、競技大会としてはまだまだ力が弱いです。国の支援も、韓国と違ってなかなか得られません。若干の援助はありますが、ほとんど自己負担です。例えばユニフォームは全部買い取りです。個人や企業、組織の負担になります。10年前の1995年フランス・リヨン大会では、エキスパートにはユニフォームがなく、レセプションに参加するときも、ユニフォームがないのは日本だけでした。恥ずかしい思いをしました。技術的にも、なかなか競技大会として進歩しない状況です。
 日本での全国大会で優勝すると、関係者は青ざめてくるのです。さて、これから国際大会への準備はどうしようかと。日本大会で審査員をやっていますから、私のところに訪ねてきます。今、選手を預かって家で合宿しているのですが、それくらいしかバックアップできない状況です。ですから、私のような一個人が頑張らないと、日本は競技として成り立たないのではと危惧しています。


競技では国民性の違いが感じられましたか。

和田:日本と韓国とでは大きな違いがあります。例えば日本は、注意されないように競技をするのですが、韓国の場合は、注意されたらやめればいいという考えです。日本は図面が解けるまで一生懸命、会場内で考えています。考えていると、どんどん時間が経っていきます。韓国はすぐ手を挙げてトイレに行きたいと言います。トイレはロスタイムですから、会場の中で考えるより外で考えたほうが効率いいのです。そして残り11分のとき、会場の時計は1分ごとにカチッ、カチッと鳴るのですが、わざわざストップウォッチを渡していました。時間を有効に、最後の1秒まで使いきるという考えです。
 またフランス大会では、定規が曲がっていたので、息子が曲がっているから交換して欲しいと言ったら、そんなものは昨日のうちに気がつくべきだと怒ります。日本の考え方は、曲がったものなど出すな、という考え方ですよね(笑)。そういう国民性の違いは現れてきますね。


現在私はエキスパート(審査員)として、息子は国内の指導員として選手を指導しています

技能五輪国際大会に関わりを持つようになったきっかけはなんでしょうか。

和田:私たちが国際大会に参加したのは、第33回フランス・リヨン大会(1995年)が初めてです。息子(和田智一さん)が建築大工職種の日本代表選手として出場したのですが、その関係でエキスパート(審査員)のオファーがありました。息子はその大会で10年ぶりのメダルで、銅メダルを取りました。


競技時間はどれくらいですか。

和田:競技時間は4日間で23時間です。1日に6時間です。正確にいうと、22時間以内に適した課題を作るということになっています。競技の進行状況に応じて1時間を加えます。



各国のエキスパートによって、その年の技能五輪大会の課題が決定される。後方中央が和田さん。
どのように課題は決められるのでしょうか。
和田:エキスパート(審査員)は、国の代表として課題を持っていくのが義務づけられています。課題を提出して、各国代表のエキスパートが課題を選考して、その年の技能五輪大会の課題が出題されます。
 でも、10年前は全く資料がないわけですから、さて、どうしようかと・・・。しかし、国では資料が集まらないという状況でした。企業のところへ行っても、国の選手ではないので公開されません。資料もなく、内容もどんなものか全くわからない状況ですから、全く手探り状態で、私は3ヶ月間、息子は4ヶ月間仕事をしないで練習をしていました。

 資料が乏しい中でも、日本の課題を提出し、息子は銅メダルが獲得できて本当によかったと思います。そういう状況で息子と2人で苦労したものですから、それ以降は次の選手にすべての資料を公開して引き継ぎをするという条件で続いています。現在私はエキスパート(審査員)として、息子は国内の指導員として選手を指導しています。

建築大工職種では、日本のメダル獲得はどういう状況なのでしょうか。

和田:近年20年間で、息子(和田智一さん)が10年前のフランス大会で銅メダルを取って以来、まだ1個しか取っていません。建築大工の課題は数学の幾何学ですので、世界共通です。道具ややり方は若干違いますが、課題は同じものです。日本の国内大会では、課題を2,3ヶ月前に公表するので、指導員たちが問題を解いて、選手に同じものを何回も繰り返し練習させます。国際大会では競技の1時間前に課題が発表されます。ぶっつけ本番ですから、本当の実力がないとできません。国内大会では、例えば図面が間違っていても、選手は同じものをくり返し練習していますから、必ず作ることができるのです。国際大会はその図面が間違っていると絶対にできません。その図面を解く力が、日本はヨーロッパなどに比べるとまだ低いような気がします。


課題の違いはありますか。

和田:フランス大会の時の課題部門では、フランスが1位、オーストラリアが2位、日本が3位でした。イギリスのエキスパートは、日本の課題は素晴らしいと言います。素晴らしいのだけれど、うちの選手には無理だと言っています。何故なら、全然作りが違うんですよ。外国では細工ものが少ないのです。


国際大会では、エキスパートとしてどんなことをされていらっしゃるのでしょうか。

和田:選手が息子とはいえ、基本的に選手に近づいてもいけないし、会話をしてはいけないし、自分の国の審査は一切できないです。競技中でも他の国のエキスパートに声をかけて、通訳を通して、間接的にしか会話はできません。
 会場では選手は自分一人の力でやらなければなりません。途中で図面の審査に続いて、墨付け、加工、組み立て、完成の順で審査があります。

息子さんにはどういう風に指導したのでしょうか。

和田:国際大会の図面の描き方は、国内の大会とは全く違います。息子に問題を解くことは、誰も教えてくれる人がいなかったのです。皆に私が教えたんじゃないかと言われますが、国際大会に向けて自分のエキスパートの準備で精一杯だったものですから、基本的なこと以外は教える余裕がなく、息子は自分なりの力で工夫し、解けるようになりました。現在は息子が選手を指導していますが、若いですから非常に飲み込みが早いです。若い人の力は無限にありますから頼もしいですね。


1995年第33回フランス・リヨン大会にて。
和田氏の長男でもある和田智一さん(当時21歳)が、この大会で銅メダルを獲得する。






エキスパートは自分の国の審査は一切できない。競技中でも他の国のエキスパートに、通訳を通して間接的にしか会話はできない。

4日間22時間の競技時間で課題を完成させる。

1995年第33回フランス・リヨン大会。できる範囲で、選手のバックアップしている和田ファミリー。
(左から:和田智一さん、和田さんの奥様、和田三郎さん、通訳の姪御さん)

速報!和田三郎氏からの現地レポート


どれくらい練習をしたか、全力を尽くしてどれくらい結果が出せたかが問題です

5月19日(木)~6月1日(水)開催のフィンランド・ヘルシンキ大会まであと少しですね。

和田:今年はぜひメダルを取りたいです。2004年 いわて大会金メダリスト畑山惣一選手が、今年のヘルシンキ大会に出場します。北海道出身で今20歳ですが非常に頑張っています。中学を卒業し、宮大工になりたいといって富山県の工務店に就職したのです。とてもやる気のある子です。


大会に向けてご自宅で合宿をされていらっしゃいますが、どんなトレーニングをしていらっしゃいますか。

和田:昨年から自宅で合宿させて、息子が選手の指導をしています。もう5ヶ月くらいになりますね。朝から夜の10時くらいまでずっと練習をしています。図面の解き方も教えなくてはなりません。大会は一発勝負ですから、何回も繰り返し練習をして、図面をいかに理解して、時間を短縮するように訓練を重ねていきます。課題には、必ず部分的に難しく作っているポイントがあります。そういうものを、できるだけ数多くの経験をさせるようにしています。大会で、この課題はどの大会のあの部分と同じだというのが、わかってくるようになれば問題も早く解けるようになります。

選手を育成するうえでどんなことを心がけていらっしゃいますか。

和田:どうしてもメダル獲得にこだわりがちなのですが、どれくらい練習をしたか、全力を尽くしてどれくらい結果が出せたかが問題です。全力を尽くしても、残念ながらメダルを取れなかったという人は、次のときの成長が全然違います。その悔しさというのは、とても大きな力になるからでしょう。必ずしもみんな優秀な人だけが全国大会に出ているのではないのです。しかし、練習の過程でどんどん成長が見られるのです。
 精神集中という面では、今では音楽聴きながらやるというのは普通なのでしょうが、大会の雑音の中でも精神が集中できるように、わざと同じような状況で練習をしました。


今まで練習してきたんだから、おまえなら絶対できるんだ!!

人材育成の上で難しい点はどんなところですか。

和田:ただ誉めるだけではダメなんですね。若い人は誉めると天にも昇りますが、急降下もするのです。その辺の手綱さばきが非常に難しいですね。私も選手を預かってその子が巣立っていくときには、やりがいを感じています。今若い人たちの事件が多い状況ですが、決してそんな人たちばかりではないです。130人の選手たちが必死で競技する姿をみたら、親たちはまさに釘付けになって感動しています。


メダル獲得に選手の能力が最大限発揮されるように、どういうアドバイスをされるのでしょうか。

和田:会場で全力を尽くしてもらうというのがなによりです。「今まで練習してきたんだから、おまえなら絶対できるんだ!!」と、最後にいつも声をかけています。全力を尽くせないというのは悔いが残りますから。


先生が一番こだわっている点はなんでしょうか。

和田:これは、国内大会で私が作った資料です。これは手書きです。大会まで、こういう図面作りの準備をしています。まず、下書きをします。国際大会に出る人はみなソフトを持っています。私は深夜の作業で、一年中睡眠不足です。もともと描くことは好きですから、図面も手書きでやっています。
 CADを使うと便利ですが、建築大工もプレカットによって技(技術)がだんだんなくなりつつあります。こういう手書きの技術もだんだんなくなって、問題を解く技術もなくなっていきます。だから、CADは便利ではあるのですが、建築の技をなくしてしまうという怖れがあります。設計図もほとんどCADですから、線をひけない設計屋さんがいるだろうし、我々も鉋も削れない大工さんが増えていくようで残念です。だから、私は手書きにこだわっています。


2003年第37回スイス・ザンクトガレン大会に和田氏が提出した課題。

CADを使わずに手書きで図面を書いている。“職人”としてのこだわりである。

大会ではどんなアクシデントがありますか。

和田:図面が解けないというのが致命的です。それで、長さや、角度が決まったりするわけですから。例えば、勘違いして問題を解いたり、写し間違いなどがあるようです。国際大会は全く自力です。1997年のスイス国際大会でこんなことがありました。精密機器組み立て部門で、日本のデンソーの選手が、設計図にミスがあると指摘しましたが、これは選手生命をかけたアピールで、実際にこの選手が正しかったのです。このように中間でのアピールはできます。しかし、競技が始まると基本的には質問はダメになります。


メダル獲得を目指すというのが、何よりの励みになると思います

今後の展望はいかがでしょうか。次の第39回(2007年)技能五輪国際大会は、いよいよ日本(開催地:静岡)で22年ぶりに開催されるということですが。

和田:今年(2005年)のフィンランド大会でも問題がいろいろ起きています。日本とヨーロッパとの電動工具の安全基準に違いがあり使用できなくなるのではと、今機械メーカーに動いてもらっています。会場で不安になることがあるのですが、エキスパートはその不安にも対応していかなくてはなりません。
 日本での開催は、第19回(1970年)国際大会(開催地:千葉)、第28回(1985年)国際大会(開催地:大阪)に次いで、第39回(2007年)国際大会(開催地:静岡)で3回目になります。日本ではエキスパートを選手側が選びますが、他国では国が選びますから、毎回同じ人がエキスパートになるので皆顔見知りになるのです。だから、大会でも融通が利くことがあるようです。
 私が次もエキスパートを必ずやるとは限らないのですが、今、職種ごとに国際大会選手強化対策委員会を作っています。若い選手たちがこれからの日本を担っていくわけですから、私がやれる範囲で力になれればと思います。やはり、メダル獲得を目指すというのが、何よりの励みになると思います。


現在のお仕事はどのようにされていらっしゃるのでしょうか。

和田:仕事は息子と細々とやっています。一般住宅は3ヶ月に1棟ずつ仕上げるのが一般的なのですが、私は1年間に1棟しか造らないんです(笑)。まさに手作りの家です。コストダウンの中で、逆にコストをかけてやっています(笑)。付加価値の高いものを作っていこうかな、と。大手のハウスメーカーと張り合っても、なにも勝ち目がないものですから。あまりにも大きく建築が変わってしまって、今はほとんどプレカットです。もう削ることもできない、切ることもできない、釘も打てない、もちろん研ぐこともできない、という大工が主流になってしまい、大工は組み立て屋さんになってしまいました(笑)。


自分の好きな道を進むのが、何よりの励みになるはずです

ご自身の進路はどのように決めたのでしょうか。


和田さんが描いたチャールズ・ブロンソンの肖像画。
絵を描くのが大好きで、大人になってもさまざまな人を描いている。
和田:私は1964年東京オリンピックの年に、中学を終えて新潟(小千谷市)から東京へ就職に来ました。私は絵が大好きでしたから、小学1年頃からずっと絵ばかり描いていたんです。同級生は皆、私が絵の道を進むと思っていたようです。我流なんですけどね、とにかく描くことが大好きなのです。
 でも、中学のときに大学出の美術の先生に「お前の絵は確かにきれいに描けているけれど、銭湯の壁画と同じだ」と言われました。絵だけは誰にも文句言われたことがなかったのでショックでした。私の又従兄弟が1学年下でしたが、同じ先生に誉められたんです。誉められた又従兄弟は絵の道に進み、今では美術専門学校の主任講師をしています。誉められなかった私は、絵の道に進まず、大工の道に進みました(笑)。
 母校の中学校で講演を頼まれたときに、その美術の先生を招待して昔の話をしたら、「やっぱり自分の言ったことは間違いない。お前がもし絵の道に進んでいたら、今のお前はないのだから。絶対間違ってない」と、言っておられました(笑)。
 でも、好きな道だから進んでこられたのです。私は中学のときに自分の進路を決めて進みました。選手たちもすでに進路を決めています。若い人たちに言いたいことは、中学は高校、大学に進む単なる通過点と考えるのではなく、目標を持って、まず自分の進路を決めてもらいたいということです。そのためには、自分の好きな道を進むのが、何よりの励みになるはずです。早い時期に、そういう目標が持てるほうがいいと思います。

職人としての思い入れをお聞かせください。

和田:“職人”という形がすっかり変わってしまいました。“職人”という言葉は好きですが、今は“職人”という言葉すらなくなりつつあります。大手のハウスメーカーでは伝統は守れないし、我々は小さいところだから逆にこだわることができるのです。
 私の父は現在99歳ですが、瓦葺き屋根の職人でした。「大工になるなら東京へ行け」と父が言ってくれたのが、私にとって大工への第1歩でした。親父が口癖のように言っていることは、「職人の技は、自分ひとりのものではなく、借りたもの(親方や先輩に教えられたこと)は必ず返せ(後輩へ伝えること)」ということです。
 父の教えに私も共感しているものですから、同じ建築仲間として若い選手を育てるということで、職人の技を守り伝えていくのが、私たち大人の義務だと思っています。「借りたものは返せ」という意味で、企業や団体などという垣根を作らずに、支援できるものはできる限り支援していこうと思っています。
 私も56歳ですからね、生涯現役でありたいし、生涯職人でありたいので、好きな道をいつまでも頑張っていきたいと思います。



TonTon インタビューを終えて

 最後に、和田さんがお持ちになってくださった絵画をみて、一斉に感嘆の声が上がりました。玄人並みで、本当にお上手です!学校の恩師の言葉に左右されることも確かにありますね。しかし、どの道に進んでも好きなことは必ず生かされているような気がしてなりません。みせていただいた手書きの図面もCADに負けないほどの素晴らしいものでした。
 中学のときに進路を決め、時代はどんなに変わっていこうと、職人の技は変わらない、という信念を持ち、職人の道を歩み続けている和田三郎氏。そして、自宅の作業場で技能五輪国際大会の選手を指導している、その情熱に敬服致します。ご健闘とご成功を心よりお祈りしています。


速報!和田三郎氏からの現地レポート


■ 2005.6.6: 〔結果報告〕
 第38回技能五輪国際大会(フィンランド・ヘルシンキ)の日本の成績は、金メダル獲得数が世界第1位、総メダル獲得数が世界第5位という素晴らしい好成績を獲得しました。

●金メダル獲得数
1位 日本、スイス、南チロル・イタリア・・・5個
(日本が金メダルを獲得した職種:ポリメカ二クス、メカトロニクス、機械製図CAD、CNCマシニング、情報ネットワーク施工、デモンストレーション職種)
4位 ドイツ、フィンランド・・・4個
6位 韓国、オーストリア、オーストラリア・・・3個

●総メダル獲得数
1位 スイス
2位 韓国
3位 南チロル・イタリア
4位 ドイツ
5位 日本・フィンランド
7位 チャイニーズタイペイ
8位 オーストリア
9位 オーストラリア、スウェーデン


5月31日の閉会式。多くの感動を胸に、第 38 回技能五輪国際大会(フィンランド・ヘルシンキ)の幕を閉じた。

世界の舞台で熱く闘い抜いた日本の選手たち。建建築大工職種の畑山選手は8位にランクイン。

■ 2005.6.1: ヘルシンキより〔大会最終日〕 和田 三郎
 5月29日大会最終日モジュール2の組み立て、モジュール3を残してのスタートでした。2時間44分を残しモジュール3を開始、果たして組み上げることができるか大きな賭けでもありました。3時52分残り5分間で組み立てを決断。展開図面や、墨付け、刻みも、決して満足のいく出来ばえではないが「なんとしても、組み上げたい」と、畑山選手の決断に組み立てがスタート。しかし、未完成のまま3時57分すべてが終了。
 「本当によくやってくれた」と、白井親方が感動の涙で選手と交わした握手に、周りからも大きな拍手が送られました。静岡大会・プロデューサーの残間里江子氏も応援に駆けつけ、「なぜか気になってここに足が向くのです。感動しました」と握手を交わしました。
 電動工具や競技課題についての問題を残しながらも、今後の課題として持ち帰りたいと思います。31日の閉会式での結果発表を残すのみとなりました。


最後まで全力を尽くし、健闘する畑山惣一選手。

4日間におよぶ競技が無事終了。組み立てられた課題を前に(右端が和田さん)。

建築大工職種で闘った各国の選手とエキスパート、競技はすべて終了した。

■ 2005.5.30: ヘルシンキより〔大会3日目〕 和田 三郎
 大会3日目を迎えました。畑山選手、苦戦しながらも親方の白井さんの見守る中健闘しております。第1モジュールは、韓国の選手がトップで組み上げました。ヨーロッパ選手の技術力の高さに驚かされましたが、韓国の選手には、さらに驚かされました。なんと、工業高校の生徒で18歳とのことです。「この程度は当たり前、国際大会で優勝でするよりも、国の代表になるほうがもっと難しい」と、自信たっぷりのエキスパートです。
 エキスパートは場内に缶詰状態のため、他の職種の様子はあまりよくわかりません。ただ、食事の時会うと、お互いにため息をついております。


建築大工職種・畑山惣一選手、競技開始前に。右から2番目が和田さん。

競技開始、4日間22時間の競技時間で課題を完成させる。

エキスパートは、途中で図面の審査に続いて、墨付け、加工、組み立て、完成の順で審査がある。

■ 2005.5.27: ヘルシンキより〔大会2日目〕 和田 三郎
 開会式を迎え、今日(27日)大会2日目を迎えます。畑山選手は、健闘中ですが、ヨーロッパ勢の技術の高さに驚かされます。
 日本の電動工具がヨーロッパ規格に合わず、トラブルもありましたが何とかクリアし、今日加工に入ります。毎日強行なスケジュールの中で選手とともに少々疲れ気味です。選手は若さで乗り切れると思います。


第38回技能五輪国際大会フィンランド会場。

加盟国42カ国による開会式が盛大に行われた。

建築大工部門・畑山惣一選手が現在健闘中!

■ 2005.5.24: ヘルシンキより 和田 三郎
 第38回技能五輪国際大会(フィンランド:ヘルシンキ)エキスパート(審査員)会議3日目が終わり、ホテルに戻りました。午後9時にもかかわらず、太陽が赤々と照りつけ、10時頃日没の予定です。日本では「2℃から13℃だから冬支度を」と言われてきました。しかし、連日25,6℃の暑い日がつづき、ホカロンやセーターでは的外れの仕度に着る服がなくなりました。
 畑山選手(20歳)は、明日(24日)会場で再会をします。12課題、19の展開図面を描き、5ヶ月間の長い長い練習に耐え、25日開会式、26日に初日を迎えます。日本の技が世界に通用するか、応援をよろしくお願いいたします。良い結果がご報告できたら幸いです。


エキスパート会議を終えて。左端が和田三郎さん。

整然とした競技会場。これから熱い闘いが始まる。


和田三郎(わださぶろう)氏プロフィール

1948年新潟県小千谷市出身。1986年に独立し、(有)和田工務店を設立。日本古来の建築技術である規矩きく術を駆使し、1989年第8回技能グランプリ全国大会準優勝、1990年第9回全国大会準優勝、1991年第10回全国大会準優勝、1992年第11回全国大会で優勝する。1995年第33回技能五輪国際大会(フランス)エキスパート、2003年第37回技能五輪国際大会(スイス)エキスパート、2005年第38回技能五輪国際大会(フィンランド)エキスパートを務め、出場選手の育成に尽力し、日本古来の卓越した技が世界に知られる架け橋となる。長男の智一さんは、1995年第33回技能五輪国際大会(フランス)にて銅メダルを獲得。技は次世代に引き継がれている。
2005年11月卓越した技能者の一人として、第39回「現代の名工」を厚生労働大臣より表彰される。