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![]() ![]() アルトサックス奏者。1932年、東京・八丁堀生まれ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」「ブルーコーツ」「小原重徳とニューオータニ・ジョイフル・オーケストラ」などビッグバンドのコンサートマスターを務める。実兄(ドラマーの故五十嵐武要氏)と自己のバンド「ざ・聞楽亭」を結成。1989年、世界で最も権威のある「アメリカ・モンタレー・ジャズ・フェスティバル」に招かれ、喝采を浴びる。その円熟味のある音色はアメリカでも“ONE AND ONLY”と称されている。現在も多岐にわたり活躍中。
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![]() ![]() バリトンサックス奏者。1936年、京都生まれ。父親(ドラマーのジミー原田氏)や実兄(ドラマーの原田イサム氏)の影響から音楽の世界へ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」や「ウエストライナーズ」を経て、渡米。ロサンゼルス、ラスベガス、ハワイで活動。フランク・シナトラ、マレーネ・デートリッヒ、フォー・フレッシュメン、サミー・ディヴィスJr.など多くの海外アーティストと共演。再び日本で、自己のバンド「ザ・ハーツ」を結成。現在「前田憲男とウィンドブレーカーズ」他、多方面で活躍中。
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![]() ![]() 1933年2月21日、東京生まれ。52年頃から北村英治コンボを皮切りに、山屋清コンボバンド、八木正生コンボバンドを経てフリー活動に入る。昭和33年から数年間は米国・ハワイのカハラ・ヒルトンホテルや、サンフランシスコのブッシュ・ガーデンホテルなどの専属歌手として人気を博した。1972年米国・ロサンゼルスでベースの巨匠レイ・ブラウンと共演『Yoshiko Meet Brown』を収録したほか、2000年ピアノのジョージ・ギャフニーらと共演『Beautiful Friendship』をリリースするなど海外プレイヤーとの共演も多い。現在は都内を中心にジャズライブ会場や、さまざまなステージで活躍するほか、後進の指導に熱意を注いでいる。
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昭和20年8月15日は、昭和16年12月に開戦した太平洋戦争で、日本が大国アメリカを相手に無謀な戦いを挑み、4年経ったこの日、ついに敗戦という無残な形で幕を下ろした戦争終結の日である。昭和の始めから続いた混乱の時代は、終戦という言い方で区切りをつけたが、まぎれもなく敗戦であった。
日本の針路をキチンと示せなかった政治。冷静な分析も判断もできず暴走した軍部。時の施政者たちが行った取り返しの付かない歴史を辿った結末の日であった。 戦後の混乱の中、自由な気分どころか食べ物もなく、住むところもないひどい状況であった。それを明るい気分にさせてくれたのが音楽であった。歌謡曲では並木路子・霧島昇「リンゴの唄」、菊池章子「星の流れに」、美空ひばり「悲しき口笛」「東京キッド」、岡晴夫「憧れのハワイ航路」など、どれだけ沈みがちな日本人のこころが癒されたか知れない。 同じように軽音楽という広義の分け方の中で、「ジャズ」の果たした役割もまた小さくなかった。今回、その時代に青春真っ盛りであり、またジャズ人生のスタートともいうべき、進駐軍時代を経験した五十嵐明要氏、原田忠幸氏、後藤芳子氏、御三方にご協力をいただき、進駐軍ジャズ時代を邂逅しながら東京散歩をお願いしました。 |

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![]() ●厚木に降り立ったマッカーサー
敗戦の日を迎えて程ない8月30日(1945年)、日本にダグラス・マッカーサーが連合国軍司令官として、専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に降り立った。マッカーサーは日比谷の第一生命ビルを本拠に、日本占領軍GHQ(*註(1))の統治者として君臨した。そして政治、経済、治安など多方面にわたって動きだした。
同時に約43万人もの米軍兵たちは、ベージュ色のサージの軍服を着こなし、颯爽と街を闊歩して、アメリカの豊かさを見せつけたのであった。進駐軍の存在には、改めて国力の違いを思い知らされた。
進駐軍の活動を目の当たりにした日本国民は、焦土と化した焼け野原のなかで、衣食住に事欠きながら、貧しい生活に喘いでいた。戦争を仕掛け、敗れた愚かさに国民は犠牲を強いられ、それを実感として捉えられたのであった。国民は長い間「欲しがりません 勝つまでは」と、我慢を強いられていた。
しかし、この鬱積した日本国民の思いも、米軍兵たちの奔放な明るさには驚かされた。同時に開放された気分も満たされ、また、自由という有難みも感じるようになっていった。街中には米軍向けのラジオWVTR(FENの前身)から、ニュースと明るく爽やかな曲が流れていた。
国民は今まで聴いたこともない、躍るようなアメリカ音楽のメロディーとリズムに自然と波長を合わせ、その新鮮な感覚に熱中していった。それがグレン・ミラー楽団であり、ベニー・グッドマン楽団、レス・ブラウン楽団などだった。 その頃流行ったボーカルではビック・ダモン、フランク・シナトラ、ドリス・デイ、パティー・ページ、アンドリュース・シスターズが挙げられる。(*註(2)) |
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(この会話は、ほぼ60年近い昔の古い話です。もし勘違いや間違いがあるかもしれません。ご容赦願うとともに、新たな情報をいただけたら有難く思っております。)
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進駐軍の多くは、若い兵隊たち。当然、衣食住以外にも要求があり、日本側に様々な供与を求めてきた。日本政府もまた、それに応えなければならなかった。求められたいくつかの条件のひとつは、一般兵士に対する娯楽、それは音楽であった。当時アメリカではスウィング・ジャズが盛んで、特にダンス・ミュージックが兵隊たちによろこばれた。
![]() ●バンドを輸送する幌がついたトラックの前の後藤さん
そこで日本政府は、税金で賄う特別調達庁(*註(3))を設け、その対応に当たった。調達庁は米軍の要望に応え、日本のジャズ・ミュージシャンを集め、ジャズ音楽を提供した。東京周辺で集められたミュージシャンは、東京、厚木、横浜などにあった米軍キャンプや基地に派遣された。演奏はその他、接収されたビジネスビルや、ホテルに設けられた米軍高級将校や、軍属の宿舎(ハイツといわれた)など多方面に及んだ。それらの米軍施設の中に設けられたステージで、日本人ジャズマンたちは、演奏を行っていった。
編成は手配師みたいな人によって、パートごとに集められたプレイヤーを組ませ即席のバンド編成が組まれていた。演奏するのはキャンプや米軍将校宿舎であったが、そのバンドレベルによって、演奏場所が振り分けられていった。主に将校クラブ(オフィサーズ・クラブ)、下士官クラブ(N・C・O)、一般兵士(E・M)、女性部隊軍人向け(WAC)などに分類されていた。ギャラもバンドやシンガーのレベルによって支払われた。
当初、ジャズプレイヤーは絶対的に不足していたから、日本人プレイヤーやシンガーたちもそれなりに歓迎されていた。進駐軍は東京を中心にして、大きいキャンプや様々な基地があって、併せて幾つものクラブがあった。だから、極端にいえば楽器をもって入れさえすれば、何かしらの仕事にありつける状況であった。実際は米軍のニーズが多く、玉石混合の状態だったようだ。 ![]() ●米軍将校たちと食事をする後藤さん
しかしだんだんと、音楽レベルに差異が目立ちはじめ、レベルの低いプレイヤーは徐々に淘汰されていった。当時、日本のジャズ界には本格的なジャズプレイヤーは少なく、多くは軍楽隊出身者でかためられていた。内容的にジャズの何かを知る人も少なかったが、ジャズプレイヤーは絶対的に不足していたのであった。
その状況は、仕事のないミュージシャンにとって、神風といわれるほどの恩恵を蒙った仕事だった。しかし、その状況はいつまでも続かなかった。米軍将校や兵隊たちの要求は、徐々に高くなり、ある一定のレベルを持たなければ、演奏することができなくなっていった。
そのため、調達庁には日本人バンドのレベルを確認する、バンド審査委員会(*註(4))が設けられ、それに合格しなければ、米軍キャンプでの仕事をすることができないシステムに変っていった。 「占領軍の進駐とともに米軍クラブに出演するジャズバンドの需要が爆発的に増えたが、一方、ジャズメン不足につけこんで法外な出演料を請求するひどいバンドも現れた。この野放しのバンド界にあきれたアーニーパイル劇場(現宝塚劇場)のバーカー支配人は、日本のバンドの実際を聴いて、妥当な出演料を定めようとした。しかし、日本のバンド界の事情がわからず、なかなか格付けの作業も進まないので、GHQではこの作業を「終戦連絡中央事務所」(占領軍の国内需要を含むすべての処理を行うため昭和22年に設立された外務省の下部機関)に押しつけたのである。」 (出典:『日本のジャズ史 戦前戦後』スイング・ジャーナル社 内田晃一著)
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進駐軍キャンプのジャズは、それなりに人気を得て、兵隊たちに受け入れられていった。しかし、時間が経つにつれ、バンドの優劣がはっきりしはじめ、レベルの低い日本人ジャズメンが、進駐軍キャンプで仕事ができた期間は意外と短かった。
そして、米軍将兵や軍属の中には、アメリカでジャズをやっていた者、理論を知っている者たちも多くいた。彼等は目をつけたプレイヤーに演奏技術を教え、楽譜を貸し与えたりするようになった。或いは、日本では手に入らない楽器を惜しげもなくプレゼントすることもあった。特に、ハンプトン・ホーズやジミー・荒木などが、日本人プレイヤーに大きな影響を与えたという。
中には軍の楽器を横流しして、日本人ジャズマンたちに売りつけた猛者もいないわけではなかった。楽器を買った日本人はヤスリで米軍のマークを必死で消して使っていたという。
そのような環境の中からナンシー梅木、江利チエミ、ペギー葉山などのボーカリストが生まれ育っていった。バンドでは南里文雄とホット・ペッパーズ、東松二郎とアズマニアンズ、レイモンド・コンデとゲイセプテット、渡辺弘とスター・ダスターズ、長尾正士とブルー・コーツ、秋吉敏子など本格的な演奏活動を展開していった。 |
![]() ●ダブル・ビーツの演奏風景(左から守安祥太郎(p) 滝本達朗(b) 五十嵐武要(d) 五十嵐明要(as) 沢田駿吾(g))
日本のジャズは、戦前から一部では盛んであった。しかし、戦後のジャズブームのきっかけは、なんと言っても進駐軍キャンプの存在であった。キャンプの演奏を経て、再興の道を歩み始めたのだ。日本人向けのジャズが盛んになって、ラジオ番組やステージが盛んに行われるようになっていった。
続々とジャズバンドが編成される状況のなかで、劇場やクラブなどで活発な演奏活動が始まった。ラジオ番組やステージでは白木秀雄、ジョージ川口、小野満、海老原啓一郎などの人気プレイヤーを輩出していった。これが戦後の日本ジャズの黎明期ともいえる。 その後バンドは離合集散をくり返しながら、発展していった。進駐軍によって道を切り拓かれた日本のジャズマンたち。しかし、当時活躍された多くのプレイヤーやシンガーは引退、或いは物故された。いまその頃の実情を知る人は本当に少なくなってしまった。 |
現在、日本ジャズマンの実力はレベルも高く、また有名な外国人プレイヤーも多く来日し、いつでもファンが楽しめる時代である。またライブハウスも東京を中心に数多く存在している。中には本場アメリカで聴くのと、同じようなプレイヤーの演奏と、豪華な雰囲気を楽しめる。国内においても幅広い潜在的なジャズファンによって維持されている。
また、若い日本人ジャズプレイヤーやボーカリストは、積極的に海外に進出し、日本ジャズ界のレベルを堅持している。ライブ演奏の会場では、人気のあるジャズプレイヤーは、チケットが完売するほどの盛況ぶりである。 |

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![]() ●現在の丸ノ内ホテルの正面入口
丸ノ内ホテルは米軍将校宿舎として、接収されていました。ホテル内には娯楽施設としてのクラブがあり、毎晩多くの日本人ジャズマンやシンガーたちが活躍していました。
接収されたホテルは、丸ノ内ホテルだけではありません。東京の赤坂・山王ホテル、銀座・有楽ホテル、東京駅・八重洲ホテルなども米軍将校宿舎として使われていました。 それぞれのホテル内にはジャズを演奏するステージがあり、日本人が演奏していました。出演者としてバッキー白片とアロハ・ハワイアンズやジョージ・川口さんなど著名な人の出演が多かったようです。 戦後接収されたのはホテルだけではなく、東京駅から銀座、新橋界隈にかけ、GHQに接収されたり、統治されていた建物や施設は数多くありました。GHQの活動は同時に、多種多様なアメリカ文化が持ち込まれた時代でもありました。そのうちのひとつが、ジャズというわけです。 |
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東京散歩の出発地点は、米軍キャンプに縁の深い「丸ノ内ホテル」前からです。ここから戦後の日本ジャズ復興の歴史跡を訪ね歩きます。
![]() ●現在の東京駅北口の風景
「丸ノ内ホテル」を出発して、東京駅北口に向かいます。現在、東京駅丸の内側は、近辺の会社に勤めるサラリーマンたちで毎日大勢行きかいます。戦後まもないこの北口では、日雇いの日本人ジャズ・ミュージシャンたちで溢れていたそうです。楽器を保管する場所などもあって、随分とごった返していたようです。
ここで集められたジャズマンたちは、手配師の差配でバンドを組み、各地の米軍キャンプや基地に運ばれて行きました。同じように新宿駅南口や、横浜駅でも同じような光景が見られたそうです。北口の当時の写真を見ますと、今はその様相を全くうかがい知ることはできません。 GHQは、ホテルや企業など多くのビルを接収しただけではなく、旧宮家、旧華族の邸宅も米軍将校宿舎として供されました。ここでも娯楽施設として、将校向けにジャズを演奏する場所が設置されていました。特に旧宮家、旧華族は邸宅での演奏だけでなく、様々な物語があったこともまた事実のようです。 では御三方には米軍キャンプで演奏に参加した時の話や、それにかかわる様々なエピソードも絡めて、当時を邂逅しつつ関連した場所を辿っていきます。 |
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![]() ●現在の「銀行倶楽部」
御三方は軽妙な昔話をしながら、大改築中の東京駅前を通り過ぎます。駅北口の信号を渡り、丸の内仲通りを突っ切ると、日比谷通りに突き当たります。正面に皇居前広場が見渡せます。
皇居前広場は、サラリーマンの憩いの場として、また都内遊覧の定番コースとしても親しまれています。そして最近ではマラソン愛好者のトレーニング場所として、話題になっています。この辺りには、マラソン愛好者のための更衣室やシャワー設備などが整った施設も多くあるようです。 |
![]() ●「バンカーズ・クラブ」があった現在の 「銀行倶楽部」を背景にパチリ
日比谷通りに面した右側に、赤レンガ造りの威容を誇る東京銀行協会ビルがあります。現在は「銀行倶楽部」と称され、結婚式やパーティー或いは企業や役所の用談の場としても使われているようです。
実はここが戦後まもなく「バンカーズ・クラブ」と呼ばれたアメリカ第5空軍(FifthAir Force)のクラブでした。ここで立ち止まってがっしりとした建物を見上げました。言われてみればそのような重厚な雰囲気がうかがわれます。レンガ壁際で皆さん懐かしそうに記念写真をパチリ。 |
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![]() ●バンカーズ・クラブ時代の華やかさが うかがわれるクラシックな階段
このビルの支配人の方に案内されて階段を上がっていきます。一部の雰囲気は残っているようですが、内装はすっかり変わってしまっているようです。五十嵐さんと後藤さんは当時の思い出と、現在が違いすぎて戸惑っている様子。逆に原田さんは「ここに何があって、あそこは確か何々でした」と、記憶の糸を手繰っています。
しかし、進駐軍が居た時代から60年近く経過していますから、昔を懐かしむものも少なく、記憶もすっかり風化してしまったのは止むを得ないことです。 |
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バンカーズ・クラブを後にして、日比谷通りを左折して新橋方面に向かって歩き始めます。右手は皇居前広場、道路沿いには一流企業のビルディングがずらり並んで壮観です。手前角に東京海上本館ビル、先を行って信号を渡った角は日本郵船ビル、三菱商事ビル別館と連なっています。
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![]() ●軒並み接収された日比谷の現在の街並み ![]() ●「日比谷イン」のあった日比谷公園の現在の様子
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日比谷通りを懐かしげに歩く御三方。何度も通っている道でも、改めて戦後を思い出しながら歩くのも、感慨深いものがあるのでしょう。そして、馬場先門の交差点までに丸の内三井ビル、千代田ビル、明治生命館と立派なビルが続きます。
とりわけ明治生命館はかなり古典風な建物です。コリント式というのでしょうか、古典的な佇まいが印象的です。明治生命館は戦後接収され、極東空軍司令部として使われていました(1956年返還)。このような歴史的な建造物はこれからも大事に保存していって欲しいものです。 |
![]() ●GHQ本部として使用した第一相互ビル
馬場先門交差点を渡った先には東商ホール、東京會舘、帝国劇場、第一生命館ビルと続きます。これらのビルはほとんどGHQに接収されています。なかでも戦後を代表する建物といったら、何といっても第一生命ビルでしょう。今も歴史を感じさせる堂々とした威厳ある建物です。それも戦後の日本を動かしたGHQの存在があったことも少なからず影響しているのではないかと思います。
1945年進駐軍が来た時、第一相互ビル(当時)をGHQ本部として、最高司令官マッカーサーが自ら選んだそうです。GHQは戦後の一時期、日本を統括し様々な施策を施していました。 御三方は暫らく正面玄関で当時のことを話しながら、そのまま日比谷通りを歩いていきます。 |
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日比谷交差点を渡った一角は日本の映画、演劇の中心地です。現在でも映画街、宝塚ビル、日生劇場などが割拠しています。途中帝劇の案内ボードがあって、それを見つけた後藤さんなにやら嬉しそう。「このショーに息子が出ているの」。物静かな後藤さんが笑顔をみせました。
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![]() ●現在の人気スポット、「日比谷街」の様子
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懐かしげに歩き回って東京宝塚劇場の前に出ました。東宝劇場も接収された施設のひとつでした。昭和30年1月に解除されるまで日本人出演者以外は、全く出入りが出来なかったそうです。
現在の建物は1997年12月に閉場され、現在の建物は2001年1月新オープンしたものです。従って当時の面影は全くありませんが、アーニー・パイル劇場という名前は、今は幻のように残っているだけです。 |
![]() ●アーニー・パイル劇場があった 現在の東京宝塚劇場
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日比谷の映画街を歩き回って、また日比谷通りに戻ります。戦前帝劇といわれた日生劇場、世界的に有名な帝国ホテル前を通って内幸町の交差点まできました。交差点手前にあったのが「マヌエラ」という当時のトップクラスのクラブでした。現在は娘さんが和食レストランを経営しています。ここでは当時の芸能人、政治家、社長たちの日本を代表する社交場として存在していました。
内幸町の交差点を左折すると、新橋駅に向かう道路になります。この辺りに来ると途端に雑居ビルが多くなってきます。新橋駅近くになって、またまた戦後の話に花が咲きます。この周辺には多くのキャバレー、クラブがあって大賑わいだったそうです。 |
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御三方は日比谷から新橋へ、そして銀座並木通りに入ります。さすがに疲れチョッとしたお店に入って休憩することにしました。思い思いにお好みの肴を注文して、まずは冷たいビールを。歩きつかれた身体にガソリンが入ったせいか、頭と身体にすぐさま反応します。そして、食べながら飲みながら話は続いていきます。
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御三方は昔話を交わしながら往時を思い出し、時間を忘れて語り合っていました。
この休憩のあと、銀座各所にあった米軍施設をぶらぶら歩きしながら辿っていきます。銀座4丁目には現在の和光が米軍のPX(酒保)として使われていたのは有名です。戦後の風景写真には必ずと言って良いほど掲載されています。 銀座はGHQ本部の裏側に位置していましたし、朝鮮戦争で参戦していた休暇の米軍兵たちも多く、また日本人も娯楽を求めて繰り出しました。そのため、沢山のクラブやバー、キャバレーがあったそうです。有名な店では「モンテカルロ」「黒バラ」「ファンタジア」、新橋には「グランドパレス」「銀馬車」などに人気がありました。(図参照)並木通りなどぶらぶら歩きながら「ここには何が」「向こう側には何があった」など懐かしそうに、記憶を辿って行きました。こうして進駐軍がいた当時の東京駅から日比谷、新橋、銀座での散歩を終えました。皆様ご苦労様でした。
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![]() ●昔を懐かしく想い出すように 語る後藤芳子さん ジャズ・シンガーとしてのスタートは昭和27年に北村英治さんのバンドからでした。東京を中心にナイトクラブやジャズライブなどを中心に、唄っていました。メンバーは北村さん(CL)、山屋清さん(As)、池沢行夫さん(B)、村田さん(D)でした。 進駐軍のキャンプでも随分行きました。都内に接収された場所が多くあって、その中でもGHQの将校クラブや将校宿舎などで日本人ジャズプレイヤーが沢山出演してました。 多くの演奏プレイヤーは東京駅北口や新宿南口で集められて行くのですが、私の場合はバンドの専属歌手として唄っていましたから、そういうことはありませんでした。 進駐軍のクラブで最初に行ったのは、バンカーズ・クラブでした。山屋清とファイン&ダンディーズで半年くらい出ていたかしら。ステージが二つか、三つあったのを覚えてます。半年ぐらいしてから立川(空軍基地)のクラブに行ったの。ディック・グールド(tb)が率いるフルバンドで、ピアノは最初のころは秋吉敏子さん。その後徳山陽さんに代わったけれど。渡辺貞夫さんや現在ブルーコーツのバンドマスターの森寿男さん(Tp)がリードトランペットとして入団された。昭和29年ごろだったと思う。 それから羽田のオフィサーズ・クラブ(将校クラブ)の榎島靖起とリズム・メイツ(?)というバンドで唄っていました。当時のメンバーはモンティー本多さん(P)、山木幸三郎さん(G)、津田純さん(S)、古山日出雄さん(D)、千葉さん(Tp)、影山さん(B)などが一緒でした。ここは結構長かったです。 ここにはサービス・クラブがあって、そこでVディスクやヒットキットなど貰えたの。永島のたっちゃんが“なに食べたい”というから“アイスクリーム”というと、こんな大きな(15センチくらい?)もので、びっくりしましたね。美味しかったかどうかは覚えていないけど(笑)。その頃、ワンちゃんこと犬塚弘さんも一緒でした。 東京のめぼしい建物は進駐軍に接収されて、六本木から青山にかけて結構クラブがあったの。そこに「レディースナック」という店にジューン・クリスティーが来たことがあってね。ピアノは桜井センリさん(元クレイジーキャッツのピアノ担当)。ちょっと間違えたことがあったとき、クリスティーはセンリさんの方をチョチョっと叩いて、にっこり微笑んだりして。 そのほかにも原宿の青山会館や、銀座のマツダビルの1階、新宿の伊勢丹の最上階もクラブになっていましてね。伊勢丹のクラブで唄っている時、ギャラが2000円だった。同級生の子が一流企業に勤めていたけれど、給与は500円ぐらいだからどれだけ高かったか。でもね、レコードはとても高くて簡単には手を出せなかったほど。ピアノは山崎唯さん。 マツダ・ビルにもクラブがあって、空軍将校宿舎になっていたんです。大通りに面したフロアーで、やっていました。渡辺貞夫さんの兄弟の文男さん(D)もいましたね。 ![]() ●毎日あちらこちらのクラブに出演してました。 後ろは山崎唯さんです 今はなくなったけど東京駅際に八重洲ホテルがあって、そこでもジャズが演奏されてました。個人的には八重洲に「ハバネラ」というキャバレーがあって、歌手になりたての頃唄っていた思い出があります。 米軍キャンプをはじめとして、その後さまざまなバンドと共演しながらジャズシンガーとして活動してきましたが、本場のジャズに触れたくて渡米を決意したのです。ですから、私の人生はジャズをきっかけに進駐軍時代に育てられ、ジャズシンガーの道を歩き続けてきたといってもいいかもしれません。(談)
(2012.06.07:池袋にて)
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