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![]() 1934年、東京・根岸生まれ。1963年に開催された「第1回日本グランプリ」のⅣレース部門(クラウン)で優勝する。1964年、トヨタモータークラブを設立し、その会長となる。同年、イギリスのレーシングスクールに学び、イタリア、ドイツ、フランスを歴訪する。JAFのスポーツ委員会のメンバーとしても活躍し、「富士1000kmレース」などの各種レースを主催、モータースポーツの普及に力を注いでいる。現在、全国大学学生自動車OB会名誉顧問。 |
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![]() 1932年、東京・八丁堀生まれ。高校1年の時、ジャズ界へ。以後、「シャープス&フラッツ」「ブルーコーツ」「小原重徳のニューオータニ・ジョイフル・オーケストラ」などビッグバンドのコンサートマスターを務める。1989年、世界で最も権威のある「アメリカ・モンタレー・ジャズ・フェスティバル」に招かれ、喝采を浴びる。円熟味のあるプレーと音色はアメリカでも支持され、“ONE AND ONLY”と称されている。
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![]() 「谷根千」へのアクセスは、JR山手線なら日暮里か鶯谷、地下鉄千代田線なら根津か千駄木が便利だろう。今日は、山手線の日暮里駅から出発する。今回の旅人は、アルトサックス奏者の五十嵐氏、元・レーシングドライバーの多賀氏とその奥様の3人である。 日暮里駅の西口を出て、谷中霊園を左に見ながら緩やかな坂を下っていく。すると、道の右側に本日お目当ての1軒目、「川むら(※1)」という蕎麦屋がある。白い暖簾に「そば 川むら」の墨文字が映える。 多賀 この店は行列ができるほど人気があって、なかなか入れないんです。夜になって腹が減ったと思っても、お酒を飲んでる人がいっぱいで。今日はうまい具合に入れましたね。 ![]()
根津にお住まいの多賀氏が感想をもらす。
五十嵐 店は、いつ頃からやってるんですか。 多賀 なんでも明治時代から谷中に店を構えていたとか…。歴史の古い店なので、その意味では近代化されていないお蕎麦の味が楽しめます。それに店主が凝っていて、近所にある酒の卸問屋から旨い酒を仕入れて出してくれるんですよ。 蕎麦は栃木産の蕎麦粉を使った手打ちの極細で、ほどよいコシと喉ごしの良さが自慢である。また、多賀氏の言うように、「川むら」は日本酒の品揃えが豊富だ。「喜楽長」など他店ではなかなか味わえない酒もある。魚の刺身をはじめ酒肴の品揃えも多く、日本酒党にはたまらない店であろう。 五十嵐、多賀ご両人は、つまみに「鴨たたき」「米なすあげ」「そばのかいわれ」 |
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「岩がき」などを注文する。「鴨たたき」を味見してみると、柔らかさの中に適度な歯ごたえがあり、山椒を効かせると味に深みが増す逸品だった。「何を食べてもおいしい」という多賀氏の言葉に、五十嵐氏もひたすらうなずいている。
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つまみに箸をつけながら、話は多賀氏のジャズとの出会い、そしてレーサー時代の話になった。多賀氏は、昭和38年に開催された第1回日本グランプリ2000ccクラスの優勝者。浮谷東次郎、生沢徹、式場壮吉らとともに、日本のレース黎明期を拓いたひとりである。
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五十嵐 多賀さんは僕のジャズライブによく来てくださるけれど、そもそもジャズと出会ったきっかけは何だったの。
多賀 きっかけはFEN。当時の仲間はみんなクラシックを聴いていたけど、僕はジャズ一辺倒。そのうちレコードプレーヤーを自作して、ジャズのレコードを聴くようになりました。 |
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![]() 富士スピードウェイで開催される「多賀弘明と走る会」にて |

五十嵐 イギリスに行かれた時も、ジャズを聴いていたのですか。
多賀 そうですね。イギリスに行ったのは戦前ですけど、当時ジャズピアニストで、後にレーシングドライバーになった三保敬太郎さんと知り合って一緒に渡英したんです。向こうに2週間滞在したんですが、三保さんがいたのでピアノさえあれば怖いものなし。毎日のようにクラブに行ってました。でも、最初はバーに行くのが大変でしたね。宿泊先が田舎町の旅館で、1軒しかない町のバーに地元のおじさんたちが集まっている。で、店に入ったら開口一番、「子供の来るところじゃねえ」と睨まれた。4、5人で行ったんですけど、全員子供に見られてしまった。 五十嵐 今の若い人ならいざ知らず、昔の日本人は背丈も低かったし、子供にみられてしまいますよ。 多賀 カウンターのお姉さんも、嬉々として僕らの免許証を見たがるんですよね。 多賀氏曰く、当時のヨーロッパではトヨタという自動車メーカーの存在さえ知る人は少なかったという。 多賀 トヨタってどんな会社かと聞かれましたから。一方、ホンダは有名なんです。二輪では世界のホンダでしたから。 |

![]() 看板メニューのひとつ、「鴨たたき」 |
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だから日本にはホンダより大きいトヨタという会社があると言っても信じないんですね。で、昭和38年に第1回グランプリレースが開かれた時に、ドイツのポルシェやイギリスのロータスといったレース関係者が来日して、日本の自動車産業を見ていきました。おそらくその時に、日本にはトヨタという会社があることがわかってもらえたのではないでしょうか。私としては、レースをやったおかげでイギリスにもドイツにも行くことができた。ドイツではポルシェの工房に入れたし、F1を作っているところも見せてもらって、楽しい思いをすることができました。
つまみを平らげた3人は、最後に「せいろ」を注文した。酒を楽しみ、肴を味わい、最後に蕎麦で締めくくる。「川むら」は蕎麦屋本来の楽しみ方を存分に堪能できる店だった。 |

![]() 極細麺の手打ち蕎麦。喉ごしの良さが自慢だ。 |

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![]() 店を出て、坂道を下る。次に目指すは日暮里の隣り駅・鶯谷に近い「鍵屋」という居酒屋。電車を使えば数分の距離だが、まだ陽も高い。そこで、「谷根千」をのんびり歩くことにした。「川むら」の前の坂道を下ると、視界が開け、眼下に石段が見えてくる。 ![]()
この石段は「夕やけだんだん」と呼ばれ、綺麗な夕焼けが望めるスポットとして知られている。この一帯では、猫の姿を見ることが多い。石段を下って少し歩いたところには「谷中銀座商店街」がある。「ひぐらしの里 谷中ぎんざ」と書かれたゲートが商店街の入り口に建つ。このゲートの手前に「シャルマン」というジャズバーがあるが、これについては最後に触れよう。
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さて、「谷中ぎんざ」は狭い通りの両側に惣菜屋、魚屋、肉屋など70店ほどが連なる商店街だ。谷中を代表する観光スポットであり、休日になると商店街の名物であるメンチカツを頬張りながらそぞろ歩きを楽しむ観光客も見られる。最近、商店街にかわいらしい猫の木像7体が登場した。猫の多い街として知られる谷中を考慮し、東京芸大の大学院生が制作したものだ。登場以来、この猫を目当てに訪れる人も増えているという。ただし、雨の日と夜間は見ることができないのでご注意を。
それにしても、「谷中ぎんざ」はじつに活気がある。道幅が狭いせいもあり、店同士の密着感がある。どこか参道の賑わいを思わせるところもあり、歩いているだけで気持ちが弾んでくる。 賑やかな「谷中ぎんざ」を抜け、「よみせ通り」を南下し、根津方面へ向かう。珈琲屋、蒲鉾屋、旅館などを左右に見ながら、三崎坂の信号を渡る。その先は、「へび道」と呼ばれる曲がりくねった細い道が延びている。 歩いてみるとわかるのだが、先が見通せない。じつは、よみせ通りもへび道も、 |

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かつてあった藍染川の川筋に当たっている。川を埋め立て暗渠(地下の水路)としたため、道が蛇行しているのだ。
軽自動車でも通行に難儀しそうなへび道を抜けると、偶然、豆腐の引き売りに出くわした。リヤカーに「築地 野口屋」というのぼりを立て、ラッパを吹いている。築地から谷中の住宅街まで売りに来ているらしい。細い路地に、豆腐売りの姿がよくマッチしていた。 |

![]() 路地を抜け、不忍通りを渡り、根津神社(※2)へ向かう。左手に「山の湯」という銭湯の煙突を見上げながら、神社の参道に入る。根津神社は、今から1900年余り前に日本武尊(やまとたけるのみこと)が創祀したと伝えられている。もとは千駄木にあったが、江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉が1706年に現地に移し、大規模造営を行なった。当時の社殿、唐門、楼門などすべての建造物が現存し、 ![]()
国の重要文化財に指定されている。根津神社は、つつじの名所としても有名だ。4月下旬、境内にある2、000坪のつつじ苑に、約3、000株のつつじが咲き誇る。種類も約50種と豊富で、訪れる人の目を楽しませてくれる。つつじの季節には、ぜひ訪れてみてほしい。
この日、花のない境内はひっそりとしていた。朱塗りの楼門は改装中で姿を見ることができなかったが、総漆塗りの華麗な社殿は目に鮮やかに焼きついた。 |
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![]() 根津神社を後にし、不忍通りと並行する路地を歩く。大通りから道一本入ると昔ながらの長屋が見られ、そこに暮らす人の息遣いや体温が感じられるような気がしてくる。 |

路地を抜け、善光寺坂(言問通り)を上り、寛永寺(※3)を目指す。寛永寺の山門をくぐると、東京芸大の学生と思しき3~4人が根本中堂(本殿)の絵を描いていた。かつての寛永寺は徳川将軍家の菩提寺で、江戸後期の最盛期には広大な寺地を誇った。なにしろ今の上野公園が寛永寺の境内だったのである。威容を誇った寛永寺は、幕末に彰義隊(旧幕府軍)と新政府軍が繰り広げた上野戦争の舞台となって壊滅した。その時、寛永寺の根本中堂も消失したのである。現在の根本中堂は、明治12年に埼玉県川越市にあった喜多院の本地堂を移築したものだ。ところで、桜といえば上野公園が有名だが、ここ寛永寺も隠れた花見のスポットである。根本中堂に映える桜は一見の価値がある。
寛永寺を出て、国際子ども図書館、東京国立博物館を眺めながら歩くと、上野の森が目の前に広がる。ここまでくればJR鶯谷駅はもう間近だ。日暮里の「川むら」から、反時計回りに「谷根千」を巡ったことになる。途中、休憩を入れても半日あれば十分歩ける。もちろん途中で飲んだり、食べたり、名所旧跡を訪ねながら歩いてみるのもいいだろう。その時は丸一日かけて歩くといい。 |

![]() ![]() さて、五十嵐氏、多賀氏ご夫妻は鶯谷駅の東側、言問通りから路地を入ったところにある「鍵屋(※4)」を目指す。 住宅街の一角、周囲の家並みに溶け込むように、 ![]()
老舗居酒屋「鍵屋」はあった。白い暖簾が出ていなければ、居酒屋とはわかるまい。
創業は江戸時代に遡る。参勤交代で伊賀上野(現在の三重県伊賀市)からやってきた初代店主が言問通りに酒屋を出したのが始まりという。当時の造り酒屋は、 |

店先に卓を設けて飲ませるスタイルが多かったらしい。その後、戦争で酒屋の営業が厳しくなると、酒以外にも食事を出すようになったという。ちなみに店名の「鍵屋」は、初代店主の出身地・伊賀上野の「鍵屋の辻」という地名に由来しているという。
当初、言問通りに面して店を構えていた鍵屋は、道路拡張のために、大正元年に建てられた現在の建物に越してきた。元の建物は取り壊されることなく、東京・武蔵小金井の「江戸東京たてもの園」に移築されている。 暖簾をくぐると、オレンジ色の裸電球が灯る飴色の空間に迎えられた。店主の案内で小上がりに座る。店の壁には、着物姿の女性が微笑むカブトビールの美人画ポスターなどが飾られている。かなりの年代物であろう。 鍵屋に置いてある日本酒は、「大関」「菊正宗」「桜正宗」の3種類。五十嵐氏、多賀氏ご夫妻は菊正宗を注文する。つまみには「冷奴」「味噌おでん」、「合鴨塩焼き」などの焼き鳥、そして店自慢の「うなぎのくりから焼き」を頼んだ。「うなぎのくりから焼き」は、縦に裂いたうなぎを串に巻きつけるようにして刺したもの。これにタレをつけ、炭火で焼いた逸品だ。鍵屋に来たらぜひ食べてみてほしい。 |
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五十嵐、多賀ご両人は、菊正宗を肴にジャズ談義に花を咲かせた。
多賀 ジャズを聴き始めたのは、昭和24、25年頃。中学から高校に上がる年代でした。当時よく聴いたのはディキシーランドジャズですね。ラジオを通して、いそのてるヲさんをはじめジャズ評論家の方の解説を聞くのも楽しみでした。 五十嵐 ジャズもクラシックも、源流はヨーロッパなんですね。ヨーロッパの音楽がアメリカに渡って、アメリカナイズされて生まれ変わる。ところが、ディキシーはその流れとは違う形で出てきた音楽です。 多賀 もともと黒人の葬式で演奏された音楽ですよね。亡くなった人を埋葬する時、大勢の人が墓地まで連なって行く。その間にバンドが入るんですが、それがディキシーの原点です。行きはもの悲しいテンポ、帰りは晴れやかなテンポで演奏されます。 注文した冷奴が運ばれてきた。豆腐が小さなすのこに載っている。水切りのためと思われるが、じつに気が利いている。 五十嵐 ところで、多賀さんとのおつきあいはもう7~8年になるけれど、最初に僕を見つけたのはどこなの。 多賀 初めて五十嵐さんを見たのは渋谷公会堂かどこかの会場で、観客席のずっと遠くから(笑)。 ![]()
だって五十嵐さんが銀座のクラブに出演されていても、高くて行けませんから。ジャズ・クラリネット奏者の鈴木章治さん(故人)などは銀座でも比較的安い店に出てらしたので、演奏を聴いたことがあるんですよね。私は、五十嵐さんのアドリブ演奏がとっても好きなんです。自分にとって波長が合うといいますか。それから、たまにゆるやかなブルース調の曲を吹くことがありますでしょ。すると、ディキシーを聴いてきた者としては、すごく嬉しくなりますね。ジャズプレーヤーはたくさんいますけど、演奏を聞いていて嬉しくなるプレーヤーは五十嵐さんのほかにはちょっといないですね。
五十嵐 いや、ありがとうございます。それはともかく、本物のジャズに触れたかったら、やはりアメリカ・ニューオーリンズですよね。本当にジャズの故郷という感じがします。町じゅうの店でジャズをやっていますから。 多賀 バーだろうが、何だろうが、どこでもジャズですよね。 五十嵐 通り沿いの店が2~3軒おきに必ずジャズをやっている。みんな一杯飲みながら。店先を歩くと、ガンガン聞こえてくるんですよ。うまいとか、まずいとかではなく、演奏すること自体、音楽になってるというかね。 |

話がひと段落し、料理も平らげたところで、「鍵屋」を後にすることにした。この店は料理の旨さもさることながら、なにより居心地がいい。客席はL字型のカウンター席と畳敷きの小上がりだけで、
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20人も入ればいいところだ。しかし、そのコンパクトさがかえって心地良いのである。「東京屈指の居酒屋」とか「日本五大酒場のひとつ」とか多くの人が鍵屋を賞賛しているが、料理の味と居心地の良さにおいて、その言葉通りの居酒屋だった。
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![]() 写真左から、多賀氏、多賀氏の奥様、五十嵐氏。 |

![]() 「夕やけだんだん」から、谷中銀座商店街を眺める。 |
![]() 店を出ると、街には夕闇が迫っていた。次に目指すのは、ジャズバー「シャルマン(※5)」である。 鶯谷から電車に乗って日暮里へ。 |
再び蕎麦屋「川むら」の前を通り、夕やけだんだんの石段を下る。
シャルマンは、谷中銀座商店街の近くにある。狭い階段を上った2階、ドアを開けて店内に入ると、 |

トレードマークらしき赤いベストを着たマスターがカウンターから顔をのぞかせた。結構いい歳である。壁には黒い柱時計が掛かり、重量感のある大型スピーカーからはジャズのスタンダードナンバー、「ユー・ビー・ソー・ナイス・トゥー・カム・ホーム・トゥー」が大音量で流れていた。なぜか店の中だけ時が止まっているような錯覚を覚えた。五十嵐氏、多賀氏ご夫妻はビールを注文。五十嵐氏は、店のマスターの人生に興味を持ったようである。
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五十嵐 終戦後アメリカから日本にジャズが入ってきて、そのとりこになったというタイプでしょうね。当時から店をやってきて、今日まで頑なに守っている。私はジャズにのめりこんで演奏する側になったけど、マスターは店を構えてジャズを聴かせる側になった。身の振り方は違うけど、ジャズに始まる人生という点では一緒ですよね。
シャルマンは、今年開店50周年を迎えた。かつては落語家の古今亭志ん朝がよく通っていたという。谷根千では、知る人ぞ知る老舗ジャズバーで、常連さんも多いと聞く。 五十嵐 50年前は、さぞ斬新な店だったんでしょう。私の50年前といえば、ジャズの道に入って、若手で少しやりはじめた頃ですよ。 多賀 カウンターの上にレコードが平積みされてますけど、あのレコードをどうローテーションしているんでしょうね。 五十嵐 そうですね。どういうレコードをかけるのか興味がある。機会があれば、早い時間に来てマスターと飲んでみたいですね。 ちなみに、シャルマンでは聴きたい曲をリクエストすれば、 |

マスターがレコードを選んでかけてくれるという。ジャズバー自体が減っている今、シャルマンのような店は貴重だ。ジャズ好きなら、谷根千の散策の最後をシャルマンで締めくくるのもいいだろう。
* 粋な蕎麦屋で一杯ひっかけ、「谷中ぎんざ」を冷やかしながら、根津・千駄木の路地を行く。神社や寺、史跡を巡るもよし、目的を定めず足の向くまま散策するもよし。いずれにしても、人情味あふれる下町情緒を満喫できるに違いない。人恋しさを覚えたら、ふらりと「谷根千」を訪ねてみることをお勧めする。 |

![]() ![]() ![]() 営業時間/11:30~20:30 木休 ![]() 境内散策自由 ![]() 境内散策自由 ![]() 営業時間/17:00~22:00 ラストオーダー/21:30 日・祝休 ![]() 営業時間/18:00~23:30 日・月休 |

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