街歩きに出かけよう街歩きに出かけよう

東京散歩 飯田橋 ~神楽坂 前編
終戦後、ダンスが爆発的なブームになった時期があったという。連日人気バンドが出演し、ダンスホールはどこも一杯だったそうだ。その中の一つが「飯田橋松竹」である。今回は、やはり当時人気バンドに在籍し何度も「飯田橋松竹」に出演していた、日本ジャズ界を代表するお二人。五十嵐明要氏(AS)と原田忠幸氏(BS)が飯田橋駅をスタート地点に「飯田橋松竹」跡を訪ねつつ神楽坂近辺を歩き回る。

今回の旅人
五十嵐  明要(いがらし・あきとし)
アルトサックス奏者。1932年、東京・八丁堀生まれ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」「ブルーコーツ」「小原重徳とニューオータニ・ジョイフル・オーケストラ」などビッグバンドのコンサートマスターを務める。実兄(ドラマーの故五十嵐武要氏)と自己のバンド「ざ・聞楽亭」を結成。1989年、世界で最も権威のある「アメリカ・モンタレー・ジャズ・フェスティバル」に招かれ、喝采を浴びる。その円熟味のある音色はアメリカでも“ONE AND ONLY”と称されている。現在も多岐にわたり活躍中。


原田  忠幸 (はらだ・ただゆき)
バリトンサックス奏者。1936年、京都生まれ。父親(ドラマーのジミー原田氏)や実兄(ドラマーの原田イサム氏)の影響から音楽の世界へ。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」や「ウエストライナーズ」を経て、渡米。ロサンゼルス、ラスベガス、ハワイで活動。フランク・シナトラ、マレーネ・デートリッヒ、フォー・フレッシュメン、サミー・ディヴィスJr.など多くの海外アーティストと共演。再び日本で、自己のバンド「ザ・ハーツ」を結成。現在「前田憲男とウィンドブレーカーズ」他、多方面で活躍中。




なつかしのダンスホール「飯田橋松竹」跡を訪ねる
スタートはJR飯田橋駅から。「飯田橋松竹」跡を訪ねることから始めます。懐かしい場所を辿りながら、そぞろ歩きを楽しみます。途中、息抜き場所で休憩を含め、当時のジャズ界の裏話や真相話を交えお話をお聞きし、散歩を続けていくことに。
戦後という言葉もすでに死語に近く、全く遠い昔の話かもしれませんが、今でしか聞けない話を記録しておきたい気持ちもあります。


ダンスが流行った頃
 昭和20年代は日本が太平洋戦争敗戦で、世の中がまだ騒然としている時代。
戦後の色がまだ濃く、娯楽に乏しい時代でもあった。娯楽といえば映画、野球、相撲が娯楽の王様だった。
 そういう時代の流れの中に、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向もあり、ダンスが奨励された。ダンスは若者達のハートをつかみ、東京のあちらこちらにダンスホールが出現した。
 ダンスが踊れる場所はすでに赤坂、新宿などにナイトクラブが存在していた。
だが、誰でも行けるところではなかったから、若者を中心に気軽にダンスホールに集まって来た。その中の一つが「飯田橋松竹」であった。
『飯田橋松竹』を訪ねる。戦後若者がダンスに熱中した時代があった。
 また昭和20年~30年代はラジオの時代。国民はラジオから流れる、様々なニュースやスポーツに熱心に耳を傾けていた。真空管ラジオが主流であった。
 ラジオから今までにない新鮮なメロディーが流れる。軽快なジャズやポピュラー曲のリズムが溢れていた。ジャズ、ハワイアン、ウェスタン、タンゴなどが一緒くたに「軽音楽」と言われていた時代であった。
 昭和26年1月第1回紅白歌合戦(この頃は暮れではなく、正月にやっていたらしい)が開かれていた。外にもロイ・ジェイムス司会の「トリス・ジャズ・ゲーム」が人気だった。帆足まり子司会の「S盤アワー(ビクター系)」、ペレス・プラードの曲ではじまりラルフ・フラナガンの「唄う風」がエンディング。薗 礼子司会の「L盤アワー(日本コロンビア系)」や大沢牧子司会の「P版アワー(ポリドール系)」などもあった。

 その頃流行した代表的なポピュラー・ソングは「エデンの東/映画「エデンの東」テーマ曲(ビクター・ヤング楽団)「情熱の花(リーヌ・ルノー)」「ジェルソミーナ(スリー・サンズ楽団)」「皆殺しの唄(ネルソン・リドル楽団)」「アナスタシア/映画「アナスタシア」テーマ曲(パット・ブーン)」「バナナ・ボートソング(ハリー・ベラフォンテ)」「キサス・キサス・キサス(ナット・キングコール)」「霧のロンドン(ジョー・スタッフォード)」「OK牧場の決闘/映画「OK牧場の決闘」テーマ曲(フランキー・レイン)」など、多くのヒット曲がラジオから流れていた。
 映画の挿入曲は広く人気を得て、ポピュラー音楽は若者の心をすっかりつかみ、多くのリスナーは乾燥した心を癒すかのように熱心に耳を傾けていた。
 特に「エデンの東」は驚異的な人気があって、「ユア・ヒット・パレード」では2年以上トップを走っていた。今では考えられないヒット曲寿命の長さである。


●飯田橋駅から外堀を望む
 作曲は映画音楽の巨匠ヴィクター・ヤング。そのほかでは、アカデミー賞を受賞した「80日間世界一周」や「ラブ・レター」など数々の大ヒット曲を放っている。
 日本の歌謡界では3人娘と称された美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが大人気であった。ステージに、映画に大活躍。そのころの映画館は封切り映画と、人気歌謡歌手が出演するライブがセットになっていることも多く、当時の代表的な娯楽場であった。

「飯田橋松竹」を訪ねる
 今回の散歩は、JR飯田橋駅西口からスタート。駅の改札を出ると、真正面に視界が大きく開ける。水をたたえた外堀を中心に、左右の風景が見事なパース状の景観となっている。
 左手には高い土手があり、色濃い樹木が林立している。右手には桜並木が続き、その背後には高さの異なったビルが控えている。
 この風景は四季折々に、朝でも夕方でも見ごたえがある。春の桜良し、新緑良し、秋の夕焼けもまた素晴らしいロケーションである。
 駅を出て左側に少し歩くと交番がある。信号を隔てて日本歯科大学の脇を通り二つ目の路地を左に曲がる。東京大神宮(*註①)の旗がはためいている。
 この通り、「東通り」とよばれるそうだが、曲がらずにまっすぐ行けば、靖国神社の大鳥居の前に出るはずだ。
 さて、もう何十年も昔のこと、お二人は場所を覚えておられるだろうか。それにしても若い女性の往来がやけに多い。まるで原宿を歩いているようだ。
 この通りは飲食店が数多く並んでいる。その並びのなかに1軒、漫画「3丁目の夕日」に出てきそうな、古い自転車屋さんを見つける。商店街を、ずんずん歩いていく。

*註①:「東京大神宮」江戸時代、伊勢神宮に参拝できな人のために作られた神宮。最初は日比谷に鎮座していたが、昭和3年現在の地に移って「飯田橋大神宮」と呼ばれた。 戦後は「東京大神宮」となった。最近は縁結びの神様として、お守りが若い女性の間で人気があるという。

●当時の飯田橋松竹の写真(写真提供:宇野 順之氏)

五十嵐 うーん、そうだ、この道、この道。なんとなく昔の雰囲気を思い出したよ。1961年(昭和36年)頃のことだよ。
原田 飯田橋松竹は右側でしたっけ、左側でしたっけ?
五十嵐 たしか、右側だった。


 お二人は当時から有名バンドだった「原信夫とシャープス&フラッツ」(*註②)のメンバーであった。飯田橋松竹にはダンスの演奏の仕事で度々来た記憶があるとおっしゃる。
 記憶をたどって来たものの、もう50年も昔のこと、道は変わらなくとも当時のビルがあるはずもない。変わってしまっても致し方ない。
 さて、どこだろうか。お二人はキョロキョロ見回してもわからないふう。たまたまそこに地元の方らしき年配の男性が居た。聞いてみることに。
*註②「原信夫とシャープス&フラッツ」:テナーサックス奏者。日本有数のビッグバンドのリーダーとして、日本ジャズ界に君臨。紅白歌合戦の司会や、美空ひばりの専属楽団としても名を馳せる。 2010年2月11日のコンサートも持って、音楽活動に終止符を打った。このバンドから多くの名プレイヤーが巣立っていった。


●旧「飯田橋松竹」跡
「飯田橋松竹」は跡形もなかった
 「昔、このあたりに飯田橋松竹があったと聞いているのですが、どのあたりでしょう」
 「飯田橋松竹? あの守衛が立っている横、薄茶色のビルが飯田橋松竹跡だよ。俺なんか始終通っていたよ。ダンス、ダンスだ。夢中だったな」。男性は懐かしげに、また少し誇らしげに語っている。

 「ほらあそこに八百屋があるだろ。スマイリー小原が良く来ていたよ。あそこの親父と軍隊時代の仲間だったんだ。もう亡くなってしまったけどね」。
 その男性もっと昔の話をしたげだった。一瞬、「みんなで、みんなで、みんなで選ぶ……」と、あの派手な指揮ぶりで名を馳せたスマイリー小原氏を思い浮かべる。


五十嵐 そうそう、ここだ、ここだ。面影はもう全くないけど、商店街の雰囲気もこんな感じだったな。前は映画館だったかな。
原田 いや最初からダンスホールだったと思うけど。
五十嵐 シャープスの時代だったけど、昼間の演奏はいつも満員状態でね。学生なんかも結構いたな。たしかチケット制だった。昼間ここで演奏してから、夜はマヌエラ、ラテンクォーターなどに出ていたんだ。
原田 昼間は我々が演奏して、夜はチャーリー石黒と東京パンチョスなんかがレギュラーでしたね。見砂直照と東京キュウバンボーイズのラテンや、小坂一也などのカントリーが交代バンドとして一緒でしたよ。

五十嵐 あの当時、ここだけでなく上野の池之端に2軒ほどあったかな。ほかに鶯谷、新宿、渋谷など結構あったもんだよ。


 お二人は懐かしげに旧飯田橋松竹の跡に立つ。感慨深けである。

●旧飯田橋松竹跡前にて

きっと忙しくまた華やかな当時のことを思いはせているのだろうか。しばらく飯田橋松竹跡の前に佇み、記念撮影。ハイ、チーズ。
 ここで昔の面影を探すことが出来なかったのは、少し残念だったが、あまりに時が過ぎ去っていた。
 すっかり面影がなくなってしまった飯田橋松竹跡を後にする。正月でもあるし少し先の東京大神宮にお参りすることに。
 するとそこには若い女性たちが長蛇の列。若い女性が多い原因がこれだった。大神宮に参拝するために、押しかけてきているのだ。
 何でもこの神社、若い女性の間では「縁結びの神様」として知られ、新年には多くの若い女性が縁を願って集まるらしい。
 IT時代と言われる現代でも昔風の願掛けが今なお人気があるのは、不思議といえば不思議である。昔の風習の一つが今なおあることに、なぜかホッとする気分になる。冗談半分で「この歳でも縁結びに、ご利益ありますかね」とガードマン聞く。ガードマンは笑って答えなかった。何を馬鹿なことをと思ったのだろう。きっと。


●東京大神宮(*註①)
 結局大神宮参拝はパスして、富士見町をUターンすることに。街並に小さな飲食店が並ぶ。最近は新しいこぎれいな店が多い。清潔感はあるものの、温もりを感じる店が少ないように思えるのだが。これは年齢のせいだけではないだろう。
 昔は人と人の間隔がとても密接だったと記憶している。

メール全盛の時代だけれど、一番大事なのは人と人との直接的な係わり合いなのだ。
 道々、五十嵐さん、原田さんお二人のシャープス時代のことをお聞きする。


五十嵐 ミッドナイトサンズからシャープスに移った理由? フルバンドのリードをやりたかった。「リード」分かる? サックス部門のリーダーだな。大きなバンドの中でリードをやるのは夢だった。
勿論、移籍の理由はそれだけではなかったけれどね。
原田 リードをやるということはバンドマンならば、誰でも夢みることなんだ。自信がなければできないことだけど。
五十嵐 勿論、前のバンドとは音楽的には全く違うね。目的、方向性が違うのだから仕方ない。自分はアドリブが出来たから誘われたんだと思っているんだ。
原田 僕はその頃十八から二十歳にかけての青春時代、女の子に興味があってステージ上からきれいな人は居ないかと、キョロキョロしてましたよ。また、ステージから良く見えるんだ(笑)。


当時から実力のある人気プレイヤーだったお二人
 この頃五十嵐さん、原田さんは若手のバリバリのジャズマンだった。

スウィング・ジャーナル誌の人気投票で五十嵐さんは「アルトサック部門」において、昭和31年5位、昭和32年33年34年と続けて3位をしめていた。因みに1位2位は海老原啓一郎と渡辺貞夫が交互していた。
 若い頃の渡辺貞夫が五十嵐さんの音色に聞きほれ、サックスを目指したというエピソードもあったと聞いている。
 同じく原田忠幸さんも「その他の楽器部門」で昭和33年5位、34年2位、35年36年3位とやはりランク入りの定連だったのだ。


原田 自分がこの業界に入ったのは前にも言ったけどレイモンド・コンデさん(*註③)のもとで、クラリネットを習っていたんだ。
そのころ米軍の施設だった東京駅近くの「バンカース・クラブ」で演奏していたとき、小さい控え室がコンデさん、大きい控え室がシャープスだった。その前から原さんと面識があったから、そこで会ううちに“内に来ない”と誘われて、シャープに入団したんですよ。
そこで出会ったバリトンサックスが一生の仕事になったわけ。そのクラブには、ジョージ川口さん、小野満さん、平岡精二さんなどそうそうたるメンバーが演奏していましたね。

*註(3)「レイモンド・コンデ(1916年~2003年)」:1922年に来日。
ヴィディ、グレゴリオ、レイモンドの3兄弟の末子。戦前から戦後まで黎明期の日本のジャズ界に大きな影響を与えたことで知られている。コンデはクラリネット奏者のみならず、ボーカリストとしても人気を得ていた。また、多くのプレイヤーやシンガーが教えを請い、スターになった人も数多くいる。
 バンド活動もゲイ・クインテット、ゲイ・シックス、ゲイセプテットと常にジャズ界のトップを占めていた。特に盟友フランシス・キーコ(ピアノ)とともに、日本のジャズ界に大きな影響を与えてくれたプライヤーであった。
 昭和33年といえば「第1回ウェスタン・カーニバル」が日劇で開かれた。平尾昌晃、山下敬二郎(平成23年1月没)、ミッキー・カーチスなどの観衆が熱狂。興奮したファンが舞台に駆け上がるなど、当時の大人たちが目をむいて憤慨した。社会的問題になったのも、なぜか年配者にとっては懐かしい思い出である。
 途中、青森県の物産店があった。「青森県の物産と観光の店」大きな看板文字で記されている。チョッと立ち寄ることにする。


●青森県の物産と観光の店
 入ってみたら店内一杯に郷土色ゆたかな青森産の野菜や乾物、水産物も数多く揃っていた。そう、ここはイカとリンゴを使った商品が実に多い。青森県特産だから当然か。イカせんべい、イカ坦々、リンゴゼリー、リンゴワイン、リンゴ醤油まである。

 見て回るだけでも楽しい場所だ。おいしそうな地酒も揃っていて、イカの塩辛などの嗜好品も多い。飲兵衛、これをみたらきっと財布がゆるむだろうに。今日はこの後がある。残念ながら大好きな日本酒や、イカの一夜干しの買い物は次の機会にとする。


神楽坂中央通を行く

 そうこうしているうちJR飯田橋駅前に。外堀をまたぐようにかかった牛込橋を渡る。なだらかな坂を下りれば外堀通り。信号は「神楽坂下」とある。このあたり春になると、外堀沿いに桜が満開になって、それはみごとな風情である。
 外堀堀沿いにある「カナル・カフェ」はドラマにも取り上げられる若い女性の人気店。ついでにのぞいてみた。冬の夕方、客がいるわけがない。長い浮橋のような店は人影もなく、寂しい冬の情景だ。
 信号角にあった元マクドナルド跡は改装され、「カナル・カフェ・ブティック」になった。桜の咲く頃、また若い女性たちで一杯になることだろう。神楽坂入り口は相変わらず人が多い。これからいざ神楽坂探索へと向かう。

 神楽坂は人気のある街で、常にどこかの雑誌に取り上げられている。またテレビでも有名タレントごひいきの店が紹介されている。派手さはないがどこか街自体に雰囲気と色気があるからだろう。
 神楽坂は料亭が多くあって、通人の遊び場所だった。明治時代から文人、墨客に愛された通人の街である。料亭は昔、「一見さん」お断りが普通だったそうだが、今時そんなことはない。昼食を提供している店もあるほどだという。今でも9件の料亭があり、芸者さんも30名ほど在籍していると聞いている。
 神楽坂の紹介記事は、神楽坂通りから右側にある本多横丁や芸者新道を中心に多い。特に料亭風の店が並んだ石畳の路など、何度も紹介されている。
 今回は中央通りの坂をのぼり、毘沙門天の裏通りにある飲み屋街を探索しながら、神楽坂をぶらりと歩いていくことに。
 またこの街の飲食店は程度の差はあっても、レベルの低い店が少ないことも特徴の一つ。それだけ競争が激しく、また来る人々の嗜好も高いからかもしれない。
 神楽坂に来た時間はすでに夕刻だった。土曜日だと言うのに相変わらずの人ごみである。

坂道を上がりながら

 なだらかな坂とはいえないこの道を、人々は間を縫うように歩いている。大変なようでいて、結構楽しい気分になる。
 以前、この坂の左側は小さな名店が並んでいた。今は理科大が入った新しいビルが完成し、街の感じが少し変わったような気がする。

●神楽坂下から神楽坂を望む

しかし、今なお土間に小石を敷いてある瀬戸物屋さん、大型の陶器店「陶柿園」、はきもの「助六」、お茶屋さん「樂山」など、昔からの店が健在だ。
 どこの街でも個性のある商店は次々と消えていく。たとえ新しいビルに入居したとしても、それは全く別の店になって、昔の風情も雰囲気もなくなってしまうかもしれない。
 この坂道には歴史が感じられる。坂について書かれた本があった。
 『神楽坂通りがはじめてできたのが、徳川三代五十年におよぶ天下大普請、つまり家光における江戸城拡張工事の総仕上げの時期であった。阿波徳島藩主三代蜂須賀忠英(ただてる)が幕府の命により寛永十三年に江戸城外郭の門である牛込見附と牛込橋を築いた。城壁は西国大名、濠は東国大名がそれぞれ担当した。この完成によって、交通の要所である牛込見附を基点として、上州道に通じるあらたな牛込御門通りが開通したのである。』(『神楽坂がまるごとわかる本』渡辺功一氏著・展望社)と書かれている。歴史ある坂道なのだ。
 坂道の途中、五十嵐氏の縁戚にあたる化粧品店があった。

五十嵐 あの店は母方の親戚筋なんだ。今は余りお付き合いもないが、兄貴(故武要氏:著名な名ドラマーだった)が元気だった頃、しばしば一緒に神楽坂に遊びに来たもんだよ。


 なんとなく懐かしげであり、兄上を思い出してのことばがつぶやかれた。

●毘沙門天善國寺

 坂を上りきったあたり、右側に大きな饅頭で有名な「五十番」が見える。それを過ごして行くと、毘沙門天善國寺(*註④)が位置する。
 夕方ゆえ参拝する人は少ないが、やはり名のあるお寺。小さくとも荘厳な空気が漂っている。まずは身を引き締め、少々のお賽銭を寄進して、こうべをたれる。「今年も元気で過ごせますように!」。
*註④「毘沙門天善國寺」:毘沙門天は江戸時代から「神楽坂の毘沙門天さま」として、民衆にあがめられたという。「芝・正伝寺」「浅草・正法寺」とともに江戸三毘沙門天とされた。山手七福神の一つとしても知られている。
 毘沙門天像は高さ30センチの木造で、普段は見ることができないが、ご開帳の日、毎年1月、5月、9月の寅の日に拝むことができる。
裏通り大手門通りから小栗通りを行く

 お参りしたならば、清めのお酒を飲むのが鉄則?(酒飲みの自己弁護風)本当ならば、毘沙門天の前、向かいの路地を入った「伊勢藤」の雰囲気がよい。しかしあの店は厳粛すぎ、今日の状況にはふさわしくない。別の機会にして、今日は毘沙門天の裏側にまわることにする。


●小栗小路
 三菱東京UFJ銀行の手前を右に曲がり、大手門通りを入っていく。すぐ左側に有名人が集まると聞く、ちゃんこ料理「黒潮」があった。そこを通り過ぎ少し入った突き当りに、ライブハウス「もりのいえ」があった。セメント打ちっぱなしのおしゃれな建物。看板らしいもののない。この店は常時生演奏がある。隠れ家的な雰囲気もあり、神楽坂らしい店といえる。今日はどうやらお休みらしい。

原田 この店、五十嵐さんの誕生パーティーをやったとこだね。森田(潔氏、ピアニスト)君のミニライブもここだった。
五十嵐 自分のパーティーの時も、ここで親しい人たちが集まってやったけど楽しい会だった。もう一回やってみたいもんだな。音響も結構良いし、雰囲気も悪くない。ジャズは理屈なしで楽しくなければね。
原田 五十嵐さんは音色で女性をとろけさすから。音のプレーボーイ。凄いんだ(笑)。



 ぶらぶら歩いて行くと小さな四つ角に。右角に「加賀」の暖簾が下がった料亭があった。この辺り洒落た雰囲気が感じれる店があちこちに。「小室」「来経」などの看板が読める。京都風のたたずまいの「久露葉亭」があった。掲示された値段はけして高くないが、気軽に入りにくい。
 この路をまっすぐに進むと神楽坂若宮神社、アグネス・ホテル方面に行く。
我々は小料理店らしき店「三幸」の角を曲がって小栗通りに入る。小栗とは江戸時代にここに住んでいた武士の名前と聞いている。この道の両側にも左党にとっていわくありげなお店が並んでいる。

 どれも魅力的なお店に見える飲み屋さんが軒を並べるている。きっと美味しそうな酒肴が揃っているに違いないと、勝手に思い込んで歩を進める。
 なんと銭湯があるではないか。「熱海湯」の看板が歴史を感じさせる。料金は450円。銭湯の暖簾も本当に見かけることが少なくなってしまった。昔はそこかしこに銭湯があり、煙突から始終黒い煙が見えていたものだが。
 このお風呂も江戸っ子の気風そのままに、湯は熱めなのだろうか。子供の頃、湯が熱くて薄めると、湯船の脇に座っているどこかの親父から、「薄めるんじゃねぇ」と怒鳴られたものだ。そうそう、銭湯はおいらの頃の遊び場だった。

●熱海湯


●お腹袋
 あまりに魅力的な店が多いので、駆け足のように小栗通りを駆け抜ける。理科大に通じる道にぶつかった。突き当たりに粋な紫の暖簾がある。「お腹袋」である。ご主人が常磐津の師匠さんでお弟子さんもいる。神楽坂ならではだ。何でも五代目柳家小さん師匠が名づけた店という。気風のよい女将さんがいる、いかにも神楽坂の店という感じである。

飯田橋から荒木町を経て新宿へ
スタートはJR飯田橋駅から。「飯田橋松竹」跡を訪ねることから始めます。懐かしい場所を辿りながら、そぞろ歩きを楽しみます。途中、息抜き場所で休憩を含め、当時のジャズ界の裏話や真相話を交えお話をお聞きし、散歩を続けていくことに。
戦後という言葉もすでに死語に近く、全く遠い昔の話かもしれませんが、今でしか聞けない話を記録しておきたい気持ちもあります。



●志満金
歩きつかれたところで『志満金』で小休止。
 粋な小料理屋「お腹袋」を右手に見て大通りに出る。出た左側角に鰻料理が美味しい店として名高い「志満金(巻末参照)」がある。今日はちょっと贅沢しよう。店に一足入ると右側にレジカウンター、「お二階にどうぞ」といわれ二階に足速く駆け上がる。道路側に大きなガラス窓があって、店内は明るく高級店の雰囲気。時間が早いせいか客はまだいない。ジャズ談義をするにはもってこいの状況である。
 さすがにお二人も歩き疲れたようで、椅子に座って大きな息をされている。
我々で広いテーブルを占拠し、まずは冷たいビールで乾杯。歩き疲れたあとのビールはことさら美味い。流し込むようなビールの味はまさに甘露、寒露。
 一息ついたところで早速インタビューをさせていただく。


― シャープス時代の演奏はどうでしたか。
五十嵐 歌謡曲の演奏が多かったけど、外タレ(外国人タレント)の演奏も結構やったな。歌謡曲全盛の時代だったからね。個人的には、ムード歌謡的なレコードを随分と吹き込んだものだよ。ギャラが良かったから。子供の学費稼ぎ? そうそう、その通り(笑)。当時のサラリーマンの4~5倍くらい貰っていたんではないかな。
サックスで森進一の例の歌い方「ウッツ、ウッツ、ウーン」みたいなフレーズでやってくれって言われて、参ったね。
原田 僕もやりましたよ。サム・テーラーの曲をバリトンでやったけど、アルトサックスみたいに小技ができないから、苦労しましたね。
その頃、関西出身で松浦ヤスノブというプレイヤーが居て、サム・テーラーそっくり吹くんだ。随分人気がありましたよ。

五十嵐 今も活躍されている尾田悟さん。あの人もキング・レコードから随分、その手の仕事やっていたね。尾田さんには個人的には随分世話になって、感謝しているけど。ちょうどシャープスを辞めたあとかな。


―シャープスを辞めたのはどういう理由でしたか。
五十嵐 歌伴(歌謡曲のバックバンド)が飽きて嫌になったことと、このままで良いのだろうかと考えたわけ。


例えば美空ひばりの公演が正月にあって、その後大阪、名古屋で公演、そして全国を回るわけだ。そうすると365日の半分はいわゆるドサ回り状態なんだね。
まだ息子が小さいころ、家に帰りまた公演に行くときなんか、「オジサン、また来てね」なんていうんだ。そんなときは情けなかったよ(笑)。
それとジャズをやりたかったから。それからブルー・コーツに移ったんですけどね。
原田 五十嵐さんがブルー・コーツに移った時、前田さんだと思うけど「五十嵐さんはなぜコンボの世界に行かないのか」不思議がってましたね。
五十嵐 でもね、ブルー・コーツに移ってプレイしていたら、ゾクゾクとした。今までの自分の色、リズムが違ったような気がしてね。これまでと違ってジャズっぽいんだな。その時、ここで自分の音楽がやれると思った。けして、コンボが嫌いだったわけではなかったよ。
でもブルー・コーツに入ったら、それはそれでいろいろ問題があって、なにかと間に入って苦労したね。私は小政っていわれていた時もあったくらいだから。


原田 僕が辞めたのは2年も居たし、そろそろ飽きてきたのね。演奏者としての環境も充分ではなかったから。当時のフルバンドでは、バリトンサックス用の譜面がなかったから、アルトの譜面で吹いていたんだから。
ある意味、ジャズではなかった。だから、ウェスト・ライナーズに入って、西条さん、五十嵐さんがいて、前田さんのアレンジがある。皆さんと一緒にプレイしたとき、ジャズってこんなに面白いものだったのかと、思ったものですよ。


―バンドを移るとき、バンス(支度金)みたいなことはあるんですか。

五十嵐 僕の場合はなかったな。その必要もなかったし。結局、あれはいずれ退団した時、返さなければならないからね。ホステスのバンスと同じようなもんだね。
原田 自分も貰ったことないな。ただ、シャープスを退団するとき、なかなか辞めさせてもらえなかった。ある日、原さんと車で帰ることがあった。
帰り際、原さんが新聞紙に包まったものを助手席に置いて「これっ」と言って降りてしまった。あとで家に帰って開けてみたら札束だった。驚いて翌日、返しましたけど。きっと退団する僕に気を使ってくれたんでしょうね。


―海外にも行かれて演奏されていますね。
五十嵐 モンタレー・ジャズ・フェスティバル(1989年)が初めてかな。それから、ロサンゼルス国際ジャズ・フェスティバル(1992年)に参加して、1994年ニューヨークに行った。アポロ・シアターやカーネギー・ホールで演奏、このときは本当に面白かった。
それからオランダ・ブレダー・ジャズ・フェスティバル(2001年)だったかな。
原田 僕も五十嵐さんと一緒にカーネギー・ホールとアポロ・シアターに行ったんだ。いろいろあったけど楽しかったです。ラスベガスで4年近くやったけど、仕事の殆どロスとラスベガスだった。仕事もオーケストラや映画音楽の演奏が中心だったから、ヨーロッパには行ってないですね。
だからフランク・シナトラをはじめとして、外国の有名歌手が日本に来たとき、バンド編成を依頼されるのはそのときの人脈。シナトラは自分がバンド・シンガーだったから、バンド・メンバーをとても大事にする。
その点ではひばりちゃんのバンドに、それと同じ感覚に通じるものがあるのではないかな。特にママの気遣いが凄かったから。実力がある辣腕プロデューサーだった。


●「志満金」の前で
五十嵐 向うのプレイヤーと一緒に演奏するのは、プレッシャーが大きかったけど、有名プレイヤーと一緒に演奏できて楽しかった。例えば、ライオネル・ハンプトンやテディー・ウィルソンが目の前で演奏しているんだからね。興奮する。
少しアルコールが入ったところでお二人の話は続く。美空ひばりさんや江利チエミさん、ピンクレディーなどの超有名歌手の舞台裏の話が次々と出てくる。知った名前の歌手の方々のエピソードなども興味深かい。また、お酒にまつわる話や色気話のあれこれ、アッという間に時間が過ぎていく。いったんここをきりあげ、新宿の馴染みの店をめざす。

隠れた食べ処飲み処が集まる「神楽小路」
 「志満金」を出たところの斜向かいに甘味処「紀の善」がある。ここは女性だけでなく、甘党の男性客も見かける。ぜんざいが美味しいと評判の店。 その横通りが「神楽小路」である。100メートル程度の小路左右にずらりと飲食店が並んでいる。

 この通りは神楽坂の表通りと違った雰囲気がある。小路の中間あたりにまた路地がある。ここにも昭和の雰囲気一杯の小さな飲み屋が並んでいる。酒通にはたまらないムードが感じられる。
 昼食時、近辺のサラリーマンやOLが行きかい賑やかだ。昼食は毎日のこと、若い人たちの目はきびしいから飲食店は、結構充実している。
 カレーが美味しい「キッチン・メトロ」。その並びにラーメン「黒兵衛」、民芸風手打ち蕎麦「志な乃」が並んでいる。
 突き当りの坂が「軽子坂」。この坂は灘から運ばれた清酒「白鷹」が外堀に到着すると、坂上の倉庫に運ばれた。荷を運んだ労働者を軽子とよび、その名がつけられたと聞いている。

 坂を右に曲がった角に、映画マニアなら知る人ぞ知る「名画座・ギンレイホール」がある。名作が上映されるときには列をなす。因みに神楽小路側に隠れたように地下に映画館「くらら劇場」がある。今時珍しい成人映画上映館である。ポスターのタイトルは声を出してもはばかるが、眼だけはしっかり見据えて通り過ぎていく。一昔前、日活のロマンポルノが人気を博したことがあった。なつかしい記憶だ。

●神楽小路

もうすこしおしゃべりしたくて新宿に
 ここで、飯田橋・神楽坂探訪は一応終えたものの、まだ喋り足らない雰囲気。では一足飛びに新宿へ。新宿には馴染みのジャズBar「ぺぺ」がある。
 狭い階段を下りてドアを明けるとそこは昭和レトロそのまま。タイムスリップしたような店内に、時間が経ったポスターや写真が壁に無造作に貼られている。年代物のコルクのカウンター、コレだけで歴史を感じさせる。今時このような味のあるカウンターを設備している店はそう多くない。
 カウンターの中にはマスター一人、ジャズが好きで好きでたまらないジャズ狂を自認するお人だ。人懐っこい笑顔、なかなか興味深いキャラクターの持ち主でもある。ディーン・マーチン(*註)が大好きだという。始終ディノの暖かい歌声が流れている。  お二人は奥のカウンターに座られて、早速「ワイルド・ターキーのロック」と声を揃えて注文する。「ウーン、美味い」。サミー・ディビスJrのコマーシャルを見ているような雰囲気。では、話の続きを。


●ぺぺの前で
*註…「ディーン・マーティン」(1917年から1995年):アメリカ・オハイオ州出身のイタリア系アメリカ人。ジェリー・ルイスとコンビで演じた「底抜け」シリーズで人気を博した。本名から通称ディノともよばれ、シナトラ一家のメンバーとして歌に映画に活躍した、戦後の代表的な男性ボーカリストである。
特に映画『リオ・ブラボー』の挿入歌『ライフルと愛馬』は東芝ヒットパレードの上位にランクされていた。けだるいような歌い方は何とも言えない雰囲気があり、ユーモアのある暖かい雰囲気をもつ話術はラスベガスでも人気を博した。

―昔、新宿には来られていましたか。
原田 そう「クラブ・リー」「ラ・セーヌ」などで演奏していた記憶がある。ジャズ喫茶では「ピット・イン」「ディグ」などがあった。「ディグ」は場所が変わったけれど、「ダグ」と店名を変えていまでもやっているね。オーナーは和歌山県出身の中平穂積さんという方で、プロカメラマンでもあります。 五十嵐 新宿に来てはいたけど多くなかった。銀座には良く出たけれど。「テネシー」「美松」「ACB」「不二家ミュージックサロン」などだった。ミュージックサロンは大きなライブハウスだった。
テネシーは良く出たな。ダブル・ビーツ時代だった。
当時ビ・バップ時代というか、流行っていたからチャーリー・パーカーの曲などを良くやった。一般的には「ナイト・トレイン」「スコキアン」「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」「朝日のように爽やかに」などを記憶している。銀座で三原橋にはブルー・シャトーというクラブがあった。
原田 美松に出演していたころ、西條さんが前田憲男さんアレンジの譜面をタクシーに忘れてしまってね。大騒ぎしたけどタクシー運転手が届けてくれて、事なきを得たことがあった。大騒ぎだった。

―シャープス時代も楽譜が無くなったこともありましたか。
原田 そう、ラテン・クオーターが火事になって(*註)、管楽器以外の楽器と譜面が全部燃えてしまった。ちょうど僕がメンバーだった頃のことで、原さんは大変だったと思う。

*註…1956年9月6日原因不明の火事が発生して多くの楽器と譜面が消失した。天才ピアニストと言われた守安祥太郎氏のアレンジ曲の譜面全部を消失したという。


―お二人が今までの音楽人生で、事故や演奏トラブルなどがありましたか。
五十嵐 あまり記憶はないけど、一度演奏中にタンポ(*註)が落っこっちゃってね。演奏をやめたことがあった。


原田 僕もないな。ストラップが切れて楽器を支えられなくなって、演奏が出来なくなったくらいかな。
五十嵐 あるバンドにいた時、駐車場で車を降りて楽器を下ろしたんだ。テナーだったけど、うっかり車両の上昇ベルトの上においてしまい、それを忘れて上昇させ、楽器が目茶苦茶になったことがあった。バカなことしたもんだよ。(笑)
原田 楽器が壊れた話ならば、大分公演のとき宿舎でメンバーと一緒に飲んでいた。その時、隣の部屋でガチャンと楽器が倒れたような音がした。直ぐに行ってケースを空けたら、楽器が壊れていてビックリ。夜中だったけどプロモーターに電話をしたら、「明日ヤマハのブースにメカニックがいるから、そこで直してもらえるかも」と言われ、翌日持込んでようやく公演に間に合ったこともあった。
五十嵐 日本の修理技術は世界一だと思うな。ジョージ・オールドが来て伴奏したときのことだけど、上のタンポが取れちゃって直らないかと聞かれた。仕方ないからバリトンのエンちゃんと二人で、でかいタンポを加工して、何とか修理してあげたら、喜んでね。


ところが外の部分もボロボロ(笑)。よくこんな楽器で吹けるなと思ったね。海外ミュージシャンはパワーがあるからできるけど、日本人プレイヤーならば、とても吹けたもんではない。
*註 「タンポ」:管楽器の音の出る穴(トーンホール)をふさぐ部品。穴がしっかりふさがれていないと、息が漏れて音が出なくなってしまう。

時間を超越した懐かしい曲が流れていくなかで。
バックにディーン・マーティンのあの鼻にかかるような色っぽく、また滑らかな歌い方が、このバーの雰囲気を盛り上げていく。この店の雰囲気に実に合う曲なのだ。暫くウィスキーを傾けながら、雰囲気に酔って聞きほれている。
五十嵐 なんともいえないね。話をしていても邪魔にならない。黙って聞いていても聴きごたえがある。こんなスタイルの日本人ボーカルいないね。居たら惚れちゃうよ(笑)。
原田 ディノは日本が嫌いだったのか、一度も来日しなかった。プレスリーと同じで飛行機が嫌いだったこともあるかもしれない。 でも、日本公演の話があって僕がメンバー揃えて、リハーサルの日が3日前に迫って、突然キャンセルにあってしまった。
原因はプロモーターが契約金を半分しか送金できなかったから。その点、向こうは契約社会で厳しいからね。だからメンバーに申し訳なくて。シナトラの日本公演でやったメンバーだったから「気にしないでいいよ」と言ってくれたのは有難かったけど。今の時代だったら大変ですよ。あの頃はまだのんびりしていたから。

 トミー・ドーシー楽団の曲が流れている。ロマンチックなメロディーが、気持ちをやわらげ、スイートな思いにとらわれていく。トミー・ドーシー楽団にはフランク・シナトラ(1940~1942年)が在籍していた。「ユー・ビロング・トゥ・ミー」のヒット曲を飛ばしたジョー・スタフォードも在籍していた当時の人気バンドだった。
 当時のフルバンドはダンス向けの演奏が多く、映画『グレン・ミラー物語』や『ベニー・グットマン物語』でもそのようなシーンが見られる。今ではアメリカだけでなく日本でもフルバンドの演奏を聞くチャンスは少ない。また、フルバンドでダンスをすることなど、夢のような話になってしまった。

―お二人はフルバンド演奏を経験後、コンボのような小編成中心のバンドが主な活躍の場になりました。なにか思うところがあったのでしょうか。
五十嵐 もうフルバンドの時代でないことは確かだと思うな。しばらく前まで赤坂のホテルニュー・オオタニのジョイフル・オーケストラで演奏していた。金、土、日が定期演奏で、そのほか会社のパーティーなどが主な仕事だった。素晴らしいバンドだったけど、ホテルの都合でなくなってしまったのは惜しかったね。でもオータニ系の海外ホテルオープンで、シンガポール、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイなどに行きました。良い時代だったね。今と大違いだ。もう来ないな(笑) 原田 オータニの演奏ステージがある、外側の通路では外人が踊ってましたね。
五十嵐 無料で!? 問題だ。(笑)


仲間の内輪話

―五十嵐さん、原田さんの共通の友人というか、仲間というか西條さんはどういう方ですか。


●なつかしいウェスト・ライナーズ時代のメンバー(左から)五十嵐武要(ds)、原田忠幸(bs)、今泉俊明(tp)、五十嵐明要(as)、金井秀人(b)、西條孝之助(ts)、前田憲男(pf)
五十嵐 音楽的実力には文句のつけようがない人。人間性についてもなかなか面白い人だ。
原田 今では大女優Yだけどまだ二十歳位のころ、よくからかってね。半分本気みたいなこと言うから、Yが怯えるわけ。するとマネジャーがすっ飛んできて、「止めてください」と必死の形相になってカバーするんだ。(笑)
五十嵐 やりかねないところもあるけど、全体では冗談なんだけどね。僕がまだ若い頃。ウェストライナーズに居た頃の話。僕は彼女に夢中になっていた、家に帰らない時期があった。


兄貴(故武要氏)は毎日自宅に帰っていてた。あるとき兄貴から「親父が心配して今日来るから」と知らされていた。その話を聞いた西条さんがメンバー全員を集めて、ある指示をしたんだ。
「おい皆んな聞いてくれ。トシ坊(五十嵐さんの愛称)の親父さんが、心配して今日来るから、だからトシ坊は仕事が忙しくて、俺の家に泊まっていることにしといてくれ。皆んな分かったか?」
しかし、メンバーは顔も上げず、黙りこくってしまった。実はその時すでに、親父は来ていて、そこに座っていた。西条さんがようやくおかしな雰囲気に気付いた時、親父はやおら立ち上がって、「皆さん。明要をよろしくお願いします。」と挨拶を述べ、帰っていったんだ。

親父は西条さんたちの友情を充分感じとったのだろう。西条さんは「……」呆然の態だった。笑うに笑えず、西条さんの心の温かさを思い知らされたね。
原田 まだ、あるんだ。関西に仕事に行く新幹線の車中のこと。こちらの座席の向こう側にセンスの良くない派手な服装をした女性が二人居た。西条さんは気になって仕方ない様子。そうこうするうち、到着したら友達と出会ったが、早速その女性のことを告げた。「今電車の中でセンスの悪い最低の女が居たよ。ほらあの二人」と指差した。その女性二人の内のひとりがその友達の奥さんだった。
西条さん、ここでもまた「……」。平謝り。ホントにとにかく憎めない人ですよ。


五十嵐 そうなんだ。あの人は。あるとき突然電話が掛かってきて「うちで飲まないか。是非来てくれ」といわれ出向いた。そしたら隣室に亡くなったお母さんが、横たわっていてね。一瞬驚いたけど、あれが西条流の気持ちの表し方だったんだね。誰も呼ばず、我々だけを呼び寄せて弔いに立ち合わせてくれた訳だな。なんとも言いようもない、しかしけっして不愉快でない、むしろ僕達を信頼してくれたんだと思った。嬉しかったね。西条さんてそういう粋さがある人なんですよ。
原田 若いとき何度も泊めてもらったこともあり、お母さんには世話になったから僕も嬉しかった。

BGMはトミー・ドーシー楽団からハリー・ジェイムス楽団に変わった。歯切れの良いハリー・ジェイムスの見事なハイトーンの音色が、この酒場に響き渡っている。
次はウッディー・ハーマンとドラムは名手ジーン・クルーパーだ。ウッディー・ハーマンのボーカルはなかなか味がある。ジーン・クルーパー楽団ではアニ・オディーがスケールの大きな迫力ある歌いっぷりだ。1964年(昭和39年)初来日したときはハリー・ジェイムスのドラミングの巧みさに度肝を抜かれた。フランク・シナトラもハリー・ジェームスから巣立った一人である。

ハリー・ジェームス楽団が「ワンオクロック・ジャンプ」を演奏している。お二人の話は延々と続くが誌面がつきました。今回は一応打ち止め。次回をお楽しみに。






鰻の蒲焼は都内でも有名な名店。会席料理だけでなく、茶室もしつらえてあり、日本料理の伝統を継承しているといっても良い。
住所    新宿区神楽坂2-1
電話    (03)3269-3151
営業時間 午前11時~午後9時45分/
       無休