年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生


柳澤 愼一氏 人呼んで“昭和の変人・平成の奇人”

 柳澤愼一氏は1952年にJAZZ歌手としてデビュー、今年で芸能生活51周年を迎える。
ジャズシンガー、俳優など幅広い活動の傍ら50年代から身銭を切って福祉活動を行ってきた。柳澤氏は自らも腰椎と頚椎のヘルニア・股関節脱臼に苦しみながらも、国民の福祉への意識参加を求めて、情熱的に東奔西走の日々を送っている。

悔いを明日に残さず、「諦観こそが達観」

 1950年、不自由な生活を強いられていた戦災孤児、障害者を目の当たりにした柳澤少年は、慰問費用を捻出するために進駐軍クラブでジャズを歌ったーこれが現在に至るまで、我が国有数の福祉活動家として挺身(*1)を続ける原点であり、のちの芸能界入りにつながる。

(*1)
(ご本人曰ク)
「挺身」などと仰られては恐縮、高齢による不自由や障害にめげる事なく、今日をひたむきに生きてらっしゃる方々に接するたび、逆にこちらが勇気づけられ、心洗われる思いで帰途についています。

 障害を抱えながら奉仕を続ける柳澤の半生が、『生き方の手本』の単行本で紹介された際、上智大学渡部昇一教授は「どうしてこういう人が生まれたのか、その精神の成長の過程を知りたい」と驚嘆している。

その真髄が、この中に潜んでいるのかもしれない!?

柳澤の著書『明治大正スクラッチノイズ』

(文芸社 03-5369-2299)が雑学のバイブルとして静かなブームを呼んでいるので、拾い読みをしてみよう。ご本人曰ク「必ず買ってください!尚、表紙が右掲のようにお洒落なので、カバーをかけずに持って歩きましょう!」


1941年真珠湾奇襲という「点」でしか見ないから自虐的史観が横行する。1906年からアメリカが陰湿に展開して来た「オレンジ計画」が日米開戦につながった、つまり35年間という「線」を見ずして歴史を語るなかれ! (明治39年の章から)

自転車でコケて「自分で転ぶ車だから」と負け惜しみを云った人が居たが、転んだ人生を送ったスリの仕立屋銀次が赤坂署に捕まったのは1909年6月。同じ仕立屋でも東と西ではこんなにも違う、ココ・シャネルがディアギレフの「ロシアバレエ団」の資金援助に乗り出したのが同じこの年。 (明治42年の章から)

丸い球を棒ではじき返すスポーツ「野球」をアメリカから持ち帰った平岡煕(ヒロシ)の甥が、丸い球を棒の先につけたマレツトを駆使してアメリカに君臨した木琴奏者 平岡養一。 (明治9年の章から)

浪曲師篠田実の「紺屋高尾」の一節に、“遊女は客に惚れたとゆい、客は来もせで又来るとゆい”とあるが、この嘘と嘘との色里へ迷い込んだ時の心得をご紹介しよう!「ちょいと先生」と声かけられたら「金は無さそうだがインテリぽい」と値踏みされたのだし、「まあ社長さん上がってって」と引っ張られたら「面(ツラ)はひどいけど金は持っていそう」と目をつけられたのだ。 (大正13年の章から)

「江戸」と「NY」を見事に同居させた柳澤愼一の真骨頂

 故徳川夢声をして「江戸とニューヨークを同居させた見事な男」と云わしめた柳澤ならではの幅の広さ・奥の深さ。
「こういう授業なら生徒もついてくる」と教科書代わりに使っている先生も居るくらい、軽妙洒脱な語り口、そして随所に登場する歯に衣着せぬ辛口の批評。(マイケル・ジャクソンも欲しがり、オネダリ巨人軍もコテンパン)


ところで、人生を楽しく過ごせるコツを教えてください

 倒した競争相手が悲しみに沈むのを眺めて一人悦に入る!というのは性に合わない。自分さえ身を引けばすべて丸く収まる。私は常に『尺取虫』で生きてきた。ただし、尻尾を丸めて逃げた訳ではない。誤解・曲解を受けても一言の弁明もしない。――『沈黙は金』。
悔いを明日に残さず、『諦観こそが達観』。銭函(ぜにばこ)抱えて墓場へ入れる訳じゃなし、一度しかない人生、欲に溺れて汚れた金を、セコクさもしく残すより、

“大いに遊び、ちょっぴり学べ!”

面白くて為になり元気の出る本の著者と過ごせる「至福の時と場所」を教えちゃおう!

ジャズクラブの名門「銀座シグナス」
場所:銀座8丁目並木通り
TEL:03-3289-0986
時間:原則として毎月第4木曜日
午後7時から午後11時までの3ステージ

「譜面も読めないアルバイト上がり、腰椎と頚椎のヘルニアと右胯関節脱臼に苦しむ欠陥人間が刻む不安定なリズムで申し訳ない」とお客様とメンバーに詫びる「昭和の変人・平成の奇人」に会いに行って、日頃の疲れを癒し、明日への活力を貰っちゃおう!


TONTON CLUB編集部から

ある時は福祉活動家、ある時はジャズ歌手、またある時は俳優・声優としても今なお現在進行形の柳澤愼一氏。そしてもう1つの顔は「東西庶民文化史」研究家である。
多彩な顔を持つ柳澤氏には、自分を枠にはめない自由で悠々とした生き方が感じられる。テレビがまだ生放送時代のお茶の間の人気俳優、喜劇俳優、映画俳優、ジャズ歌手としてはたいへん有名だが、その傍らで「ボランティアをしていると言っているうちはボランティアではない」との信念を頑なに貫き通した、日本有数の個人福祉活動家であることはあまり知られていない。
古稀を迎えた柳澤氏にとって、人生の年輪を重ねることは決して楽しいことばかりではなかっただろう。しかし、社会的現実の中でも自我を貫き通して生きてきた自信と強さ、そして人に対する優しさを併せ持ち、彼の背中には充実感溢れる男の人生が感じられた・・・。柳澤氏のますますのご活躍をお祈りいたします。


次回は「コリア・レポート」編集長 辺 真一氏です。