年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生

私が私でないなら、私はいったい何ものであろうか?/ヘブライ文学翻訳家 母袋夏生(もたいなつう)氏/当時はまだ、知られざる国であったイスラエル。何のために生きているのだろう?と自問して選んだイスラエル遊学の道。ヘブライ語を学び、ヘブライ文学に魅せられた母袋氏は、帰国して数年後、翻訳の道を目指し現在も熱心に翻訳活動を続けています。翻訳書を通して、生き抜くには何が必要なのか?人間にとって本当に大切なものは何か?を考えさせてくれます。これから先も、今自分にできることを、自分の目で、自分の足で、見極めて生きていきたいと母袋夏生氏が熱く語ります。
自分の目で、自分の足で、見極めて生きていこうと決意しました
母袋さんは約30年前にイスラエルに留学(1970~74年)されましたが、当時としては画期的なことだったと思います。留学しようと決めたきっかけや目的はどんなことだったのでしょうか?

母袋(敬称略):イスラエルは当時の日本では全く知られていない国でした。私は大学卒業後、教師をしていたのですが、当時はイスラエルのキブツ(KIBBUTZとは「集まる」を意味するヘブライ語。通常「農業共同体」と訳される)の教育が、日本では「教育のユートピア」とされていました。キブツの教育が魅力的だと思いましたので、教育者として、そういう理想的な教育を自分の目で見なくてはと思ったのです。
 もう1つの理由は、私自身としては、当たり前のように敷かれた道を歩きたくないという思いがあったのです。その当時は、「24,5歳になったら結婚をし、30歳までにはよいお母さんになる」というような社会構造でしたが、「私が今、そういう道を歩んだら、不満だらけの人生を送るだろう」と思ったのです。「自分自身の人生を真剣に生きていないんじゃないか?」という疑問もありました。だから、これだという自信が欲しかったんです。その自信を持つためには、「自分の人生なのだから、自分で選ばなくてはならない」と思ったのです。そうしないと、周囲がいろいろと決めてしまいます。1年間論文を出したり情報収集をしたりと、周到に用意を進めました。そして、仕事を辞めて留学しました。
 「今自分ができることを、自分の目で、自分の足で、見極めて生きていかないと、芳しい30代、40代を迎えられない」と、ちょっと切実な恐怖感があったと思います。

周囲の人たちの反対はなかったのですか?

15年前、平和だった頃の観光用駱駝/エルサレム郊外。平和が戻ってほしい 母袋: 両親を早くに亡くしまして伯母たちが後見人だったものですから、伯母たちを説得しないとイスラエルへ行けない事情がありました。これが、とても難航しました。イスラエルは「砂漠で戦争をしている国」というイメージが強いですから(笑)、キブツ関係の本などを見せて説明をしても、そんな難しい本など読んでくれませんから、なかなか納得してもらえませんでした。親がいたら、子どもがこんなに一生懸命に行きたいと言っているのなら行かせてやるだろうと思ったものです。親ってそんなものでしょう?でも、伯母たちは責任感のほうが強かったのだと思います。
 結局は行きました。まだ海外渡航が自由な時代ではありません。1ドルが360円の時代でした。持ち出しの金額も300ドルと決まっていました。
キブツでは“働かざるもの食うべからず”
イスラエルではキブツで体験をされたそうですね。キブツとはどのような目的で始まったものなのでしょうか?

母袋:ユダヤ人迫害は歴史的に繰り返されてきましたが、 19世紀にヨーロッパやロシアでポグロム(ユダヤ人襲撃・略奪)や反ユダヤ的事件が頻発し、それに呼応するように、自分たちも郷土をもって自衛しようとユダヤ人たちが立ちあがりました。いわゆる「シオニズム」と呼ばれる運動ですが、その一環として、暑熱の不毛の地をどうやって開拓していこうという試験的な試みが行われていました。
 1909年にはトルストイの理想農村思想やマルクス主義の影響を受けた実験的キブツがガリラヤ湖畔につくられ、それが理想主義的な集団社会として成功するにつれて、徐々に各地に広まっていきました。

実際にはどのようなことをするのでしょうか?

キブツでは果樹栽培が盛んだ 母袋: 個々に農業や工業やゲストハウスを経営して産物を市場に出しています。キブツは “各人がそれぞれの能力に応じて働き、必要に応じてとる”という思想に基づいて運営されています。キブツ草創期には労働力分散を防ぐことがなにより大切でした。
 女性の家事労働にかける時間の集約を例にとってみましょうか。「たとえば、5人が洗濯をそれぞれ30分ずつやれば総計2時間半かかる。1人が5人分をまとめてやれば、せいぜい1時間か1時間半ですむ。炊事や掃除にも同じ理屈があてはめられる。あまった時間で他のことができるし、他の4人は他の仕事にまるまる取り組める」という発想です。つまり、「外敵(黄熱病やマラリア蚊、湿地、乾燥、砂漠の灼熱、アラブ人など)と闘いながら開拓するのは個人ではとうてい無理だが、20人集まれば50人分の労働を創りだしていけるはず」だと青写真を描いて、それを実行したんですね。
 基本には集団生活に適応できる人間かどうか、という問題があります。がりがりの個人主義者や利己的な人は無理です。すべてガラス張りでプライバシーがほとんどありません。そういうのがいやな人は出て行きますし、キブツに理想を求めて入ってくる人もいます。キブツができた当時も現在も、人口の約3%の人たちがキブツで暮らしています。

どのような人たちが集まってくるのでしょうか?

母袋: 私が留学した頃は、ヒッピーの時代とちょうど重なったせいか、日本の若者たちは外に出るチャンスとして、キブツを捉えている面がありました。労働するかわりに少なくとも食と住の面倒はみてもらえますから。聖書考古学に興味がある人、実験的なものが行われている国なので社会学に興味がある人、ヨーロッパからは太陽を求める人たちが集まってきます。日本の場合は、キリスト教の聖地として行ってみたい、というクリスチャンも多かったようですし、新聞記者や画家もいました。

現地での生活などは予想されていたのと違いましたか?

エルサレム旧市城壁と時代層をなす遺跡 母袋: 全然違いましたね(笑)。まず、1つには風土の違いがありました。
 温暖湿潤な日本の気候に対して、イスラエルは強烈な日差しで乾燥していますから、強烈な色彩でないとぼやけてしまいます。パステルカラーのスーツやワンピースを持っていったのですが、全くだめ。まあ、ジーンズとTシャツで済んじゃいましたけれど。

イスラエルの気候はどんな感じですか?

ホテルの窓からテルアビブと地中海を望む 母袋: 空気が乾燥していますから、どんな時でも水の補給はとても大事です。地中海沿岸の商業都市テルアビブは、日本でいうと横浜みたいな気候です。暑いし、じとじとしています。私が拠点にしていたエルサレムは、標高約800mの山上の町で軽井沢より涼しいくらいです。夜の間に露がおりますし、石造りの建物は、太陽の灼熱を遮ってくれます。夏に住むのは最適でした。冬には雪も降ります。


イスラエルでは「寡黙」は愚かとみなされます。
イスラエルの生活に慣れるまでにはいろいろとご苦労などがあったと思います。言葉などはどうでしたか?

母袋:キブツで日本人はたった1人でしたから、注目の的でいろいろと質問されました。私はおびえてしまって、よくしゃべれなくて、フランス語も英語もでてこない状態でした。ヘブライ語は全然わかりませんでしたし。でも、渡航前に1年間文通をしていた夫婦が、私のホストファミリーになってくれましたので、彼らとお茶を飲んだりしているうちに、打ち解けて話ができるようになっていきました。彼らが私のことをキブツの新聞にも書いて、日本人がそんなに自己主張が強くないことを代弁してくれたので、私もやっと一息ついたのを憶えています。

だんだん慣れてきて、自分が出せるようになってきたんですね。

母袋: そうです。少しずつ自分からしゃべれるようになっていきました。これはたいへん大きなことでしたね。カルチャーショックが大きくて、自分の置かれた立場を把握するのに時間がかかりましたが、その理由の1つは気候的なもの、もう1つは知的会話の捉え方が日本人とイスラエル人とは違うということだったようです。イスラエル人は、ぐさぐさと聞いてくるんです。キブツにはそこで生まれ育った人が当然いますが、私がいたキブツは、フランス、エジプト、ロシア、ブルガリア、アメリカなどから移民して来た人たちから成り立っていて、それぞれの国の文化や儀礼を背負っているわけです。そういうことが私の方でもわかってからは理解が深まったようです。

日本人とイスラエル人では考え方が違うんですね。

ベン・イフェダ通りのオープン・カフェで語らう人々 母袋: イスラエル人、またはユダヤ人といってもいいのですが、彼らは「十を聞いて十を知る」という発想をします。そういう教育で育っているといえましょうか。それに対して日本人は「一を聞いて十を知る」という考えですよね。日本ではどちらかというと「寡黙」をよしとするところがありますが、イスラエルでは「学ぶことを拒んだ愚かな姿勢」と見なされます。はっきり自分の意見を表明したほうが賢いとされます。「この人は曖昧でバカなんじゃないか」と最初からレッテルを貼られない方がいいわけで、そのためにはしゃべったほうがいい、自己主張をはっきりしたほうがいいわけです。そのうえで質問する、ひとつひとつ聞いて確かめます。類推はするが、類推で得た答えをよしとはせず、相手にじかに質問して理解するという姿勢ですね。
 多少わずらわしいのですが、誤解を最小限にくい止めて、お互いの理解を深めるには話しあうことが何より大事です。もちろん、彼らのほうも質問しながら、「答えたくなかったらそう言ってね、イスラエル人は何でも聞くからうんざりするでしょ」なんて、気を遣ってますよ。

現地での生活でエピソードなどがありましたら教えてください。

母袋: キブツは、大食堂を中心にコテージ風の住居が点在し、私がいた頃は夫婦単位でメンバーが住んでいました。子どもたちはそれぞれの年齢グループに分かれた「子どもの家」で生活し、午後4時ぐらいに親たちのコテージにやってきて、寝るまでたいてい一緒に過ごします。子どもが幼い場合は、親がベッドまでついていって寝かしつけます。親子の会話があるなかなかいいシステムでした。現在は家族単位でコテージに住んでいるようです。
 食事は家族単位でもいいのですが、原則として中央にある大食堂でとることになっています。メンバーやボランティアが当番制で炊事や配膳、片づけを担当するわけです。何百人分もの食器の片づけは大変なので、当時から食器洗い機が導入されていました。お皿やコップを食器洗い機にポンポン放り込んでいくのです。そういう乱暴な扱いに耐えられるよう、お皿は合成樹脂製でした。私は合成樹脂のお皿で食べるということに抵抗がありましてね。合成樹脂のお皿を使うのがいやで、たちまち10キロくらいやせてしまいました。
 最初の1~2週間はトマトとヨーグルトしか食べられませんでした。そのうち、こんなことしていたらダメだと思って、恐る恐る他のものを食べてみたら、オレンジでも何でも美味しいんですよ。今度はみるみる太っちゃいました(笑)。

生活にも慣れてきたということですね(笑)。他には何かありましたか?

母袋: 私はすごく順応性があったようです。キブツの環境に慣れるまでバラ園で働かせてもらいました。当時EC(現在のEU)、特にオランダにバラの花を輸出していました。夜明けから朝にかけてつぼみを摘んで、まとめて冷蔵室に入れておき、朝食後にバラの花を品種・大きさ別にパックし、その日のうちに空港からオランダに送るんです。朝の3時に起きて、コーヒーとパン1枚の簡単な朝食をとり、トラックに乗ってバラ園に行き、7時くらいまで花を摘みます。それからキブツに戻って大食堂で朝食を食べるんです。ようやっとまともな朝食にありつけたという感じで、これがものすごく美味しい。労働した後だから余計美味しいということもあるんでしょうね。牛乳なんか、実にコッテリとした牛乳で、パンも日本では想像できないくらい美味しいんです。
子どもたちの可能性をできるだけ引き出そうとする教育
留学のきっかけとなったイスラエルの教育と、日本の教育との最大の違いはなんでしょうか?

母袋: 私は大学を卒業してから、練馬区の小学校の教師をしていたのですが、そこで、私がいちばん深く考えさせられたのは「相対評価」でした。成績表を1年に3回つけるわけですが、相対評価だとどうしても1がつく子ができてしまいます。教師としては、2も1も極力つけたくない。1をつけられた子の哀しさがわかるし、その子の可能性を摘むことにもなる、自分がつけられたら、どんなにショックだろうとも思います。でも5段階評価の相対評価ですから、どうしてもつけなければなりません。そういうことに、疑問を感じていました。親たちに対しても「どうしてこう子どもに過剰に期待をするんだろう?」とか、「どうして子どもたちの未来を摘んでしまうんだろう?」とか思っていました。
 それに対してキブツの教育は「絶対評価」で、子どもがたとえば、国語も社会も何もダメだけど、妙に絵だけは上手いとなると絵を描くチャンスを多く与える、音楽の才能があればそれを伸ばしてやるというように、その子の適性をみながら育てていこうとする。
 また「自立心」を育てる教育でもあります。ある子が労働割り当てとして、自分の分担になっている卵を拾わなかったら、キブツの収入減になってしまうとか、この草を取らなかったために人がけがをするかもしれない、とか。つまり、公の中にあなたも存在している、ということを幼児から徹底的に教えます。
自分たちの生活を愉しむことをとても大切にしています
イスラエルの生活についてお伺いします。興味深い食品などにはどんなものがありますか?

市場にならぶぴちぴちの野菜や果物 母袋: 今ではダイヤモンド研磨やIT技術輸出国ですが、かつては農業立国を目指していた国なので、農産物はとても優れています。野菜も果物も安くて新鮮で美味しいです。また乳製品が非常にバラエティに富んでいて、ヨーグルトも脂肪分が3%、5%、10%、15%などに分かれているし、チーズも牛・山羊・羊のものなど各種取り揃ってこれまた美味しいんです。ナッツやドライフルーツもよく食べますね。街角には必ずといっていいくらいナッツ屋があって、アーモンドやひまわりの種、デーツや干しイチヂクが山盛りになっています。

イスラエル人はクスリに対する意識はいかがでしたか?

母袋: 5年ほど前、夫と2人で3ヶ月程イスラエルに滞在していたときに、夫が風邪をひきましてね。日本から持参したクスリが効かなかったので、薬局に買いに行ったら「えっ、風邪でクスリを飲むんですか?」って言われました(笑)。友人に電話で「薬局でクスリを売ってくれないの」って言ったら、「風邪なんてユダヤスープ(コッテリした鶏のスープ)で治すものよ」って言われました(笑)。
 しかし、ヘブライ大学医学部の医療は、世界的に水準の高いので有名です。戦傷者が多い国のせいか身障者向けの設備が整っています。私は4年間エルサレムで学寮生活をしていたのですが、隣の学寮がそういう学寮でした。当時(1970年代)でもバリアフリーが完璧に整っていました。

中高年の方たちのライフスタイルは、どのような形なのでしょうか?

新年を告げる角笛吹鳴を実演してみせる男性 母袋: ユダヤ人は虐げられて逃げてという歴史を背負ってきています。逃げて流浪していくときは、ユニットで行動しました。ユニットというのは1人ではなく、「夫婦」や「家族」です。だからでしょうか、イスラエルでは基本的に男性も女性も、家族や夫婦生活を大切にしますが、小さい子どもがいるから友人たちとのつきあいを諦めるということはありません。子どもが小さいときはベビーシッターに預けて、映画や音楽会に行きます。子どもが参加できるようになれば、子どもも連れて行きます。
 イスラエルの友人のほとんどが、今ではもう中高年ですが、仕事一辺倒ではないですね。切り替えがとても上手で、自分たちの生活を愉しむことを大切にしています。仕事や夕食の後には、なにか愉しみごとを持っているようです。月に1回作家たちを招待して時を過ごしたり、食べ物を持ち寄って詩を読んだり、日本で言えばカルチャーセンターに通ったり、上手に時間を愉しんでいる人がたくさんいます。けっこう宵っ張りなので、つきあいきれないときもありますね。

今やらなかったら、この先また後悔するだろうと思いが強いのです
イスラエルから帰国されて、日本で翻訳家になられるまでの経緯を教えていただけますか?

母袋: 帰国したのはオイルショックの後でした。私は、イスラエルに行ったときもそうでしたが、帰国してからもカルチャーショックが激しくて、日本の生活に順応するまで時間がかかりました。万事ゼロからの出発でしたので、とにかく生活を軌道に乗せなくてはなりませんでした。翻訳のために活字の世界で働きたいと思いました。
 友人たちに助けてもらって編集プロの仕事などをしているうちに、出版社で働くことになりました。いきなり編集責任者でけっこうきつかったです。男女雇用均等法が施行されるだいぶ前でした。
 夢中で仕事をしていましたから、翻訳のことはほとんど忘れていましたが、週末になると思い出しては翻訳しました。40歳を迎える頃、残留感みたいなものがどんどん膨らみだしました。やり残したものがあるのに、このまま一生を終えてしまうかもしれないと思い始めて、やっと翻訳に比重をかけだしました。最初の翻訳書は、『ベン・イェフダ家に生まれて』(1991年)ですが、「これを出版しなかったらどうしても悔いが残る、死にきれない」とまで思いつめていました。福武書店(現在のベネッセコーポレーション)から「出しましょう」という返事をもらったときは、すごく嬉しかったですね。

出版社で仕事をなされている時にも、翻訳を続けていたのですね。

母袋: 私の翻訳デビューは、『暮らしの手帖』なんです。『一夜の宿を』(マーニャ・ハレーヴィ作)というホロコーストの短編を分載してもらえました。退職した1989年で、勤めながら訳していたものでした。堅実な読者層を持つ隔月刊誌ですから、幅広い読者の方に読んでいただけてたいへん嬉しかったです。今思うと、私はいつも先の目算もないのに、今やらなかったら、この先また後悔するだろうと思いが強くて、何でも始めてしまうようです。

オルレブは、まったく気取りのない人です
国際アンデルセン受賞作家のウーリー・オルレブ氏の作品を多く翻訳されていらっしゃいますが、オルレブ氏との出会いはいつどんな風だったのでしょうか?

初めて訪ねたときのオルレブと彼の家 母袋: すでに『ぼくたちは国境の森でであった』(1992年 佑学社)や『お願い、わたしに話させて』(1993年 朝日新聞社)などを出していたので、1994年に全世界から70人以上の翻訳家たちがエルサレムに集まった「ヘブライ文学国際翻訳者会議」に招待されたのです。
 夫と一緒に行きました。会議のために行ったのですが、会議そっちのけで私が会いたかったのが、オルレブでした。着いてすぐ電話し家に招待されました。ポーランド系ユダヤ人のオルレブは、ホロコーストに遭う前は裕福で育ちのいい人だと聞いていたので、私たち夫婦はスーツを着て行ったのですが、彼は洗いざらしのジーンズでした(笑)。まったく気取りのない、身の丈で生きている人だ、というのが最初の印象でした。

オルレブ氏もホロコーストの体験者ですが、彼はどんな人柄の方なのでしょうか?

今回の旅で出会ったオルレブ。笑みがいい 母袋: 家までブーゲンビリアやツタが茂っている素敵な住宅地の石畳の階段をのぼったりおりたりしていくのですが、アラブの少年がパンを売っていると、彼は必ず優しく声をかける。通りすがりのおばさんたちにも声をかけながら、ごく自然に歩いていくんですね。彼の家は、こぢんまりと趣味のいい、静かな書斎風の佇まいでした。夫のことを気遣って、仕事の話の間、夫が取り残されてしまうのではないかと、写真集などを持ってきたり、ナッツを並べたりと世話を焼いてくれて、嬉しかったですね。

壁には作品の挿絵や装画が並んでいる/アラブレストランで。後方は婦人と店主  「あっちが、僕たちの寝室だ、あそこに小さな机があって、そこが僕の書斎なんだよ」と言うのです。書斎らしい書斎があるわけでなく、寝室の片隅で世界的なベストセラー『壁のむこうの街』を書いていたのか、とちょっと嬉しくなりました。
 ・・と、その時に、ガリッと音がしました。夫がアーモンドを殻のままかじった音でした。夫もすごく不思議な顔をしているけれど、私たちもびっくりしました。多分、夫は殻つきアーモンドをはじめて見て、そのままかじってもいいんだろうと思ったんでしょうね。
 手持ち無沙汰も手伝ってか、夫はピスタチオもたいらげました。その時以来、オルレブは何かにつけて、夫にとピスタチオをお土産に持たせてくれます(笑)。

 奥さんがフィジィオセラピスト(セラピーの一種で、ダンスなどで身体を動かせて治療をめざすもの)なので、彼が子どもたちの送り迎えなどをしていたのですが、忙しくなった今でも家事をよくするし、夫婦の呼吸がぴったり合っています。ずっと以前ですが、「いちばん嬉しかった瞬間は?」というインタビューに、はにかんだように笑いながら、「妻に出会ったとき」と答えていました。
子どもというのは、基本的に明るい希望を持っているのです
彼の著書を原本で読まれたと思うのですが、初めて読まれた時の印象をお聞かせください。

母袋: 初めて会う前に、オルレブの作品は2冊ほど読んでいました。ヘブライ文学を読む場合は、翻訳書がないわけですから、まっさらな状態で読むのですが、オルレブの作品はすごく面白かった。ぜひ、邦訳したいと思いました。出会いは、『壁のむこうから来た男』(岩波書店 1995.7)に結実しました。

何冊か読ませていただき感銘を受けました。オルレブ氏の児童書の魅力についてお聞かせください。

母袋: オルレブの作品は、愛する者を守ろうとする姿勢、マイナスの要素をプラスに変えうる柔軟なものの見方を底流にこめながら、柔らかなユーモアに満ちて、力むことなく、説教がましくないことが最大の魅力だと思います。現実生活のひとコマから、あるいは子ども時代のポーランドの暮らしのひとコマから、弟と二人で隠れ住んでいたホロコーストのひとコマから、イマジネーションを広げていく作家です。

「走れ、走って逃げろ」(岩波書店 2003.7)  『走れ、走って逃げろ』(岩波書店 2003.7)のことをお話しましょうか。日本語版の装丁は、編集者も画家の方も内容を掘り下げて理解して進行しました。ところが、「英語版の装丁は、オーバーを着て白いソックスを履いた育ちのいい子どもが手を上げている写真になりそうだ」と、オルレブはがっかりしてるんですね。「典型的ホロコーストの写真、つまり、ユダヤ人が両手をあげて強制収容所に連れていかれる写真が使われそうだ」と。
 しかし、この本はそういう話ではなく、これは屈服しなかった少年の話、逃げて逃げて生き通し、いっさいを剥ぎ取られた少年が、あらたに自分の人生を一つ一つ積みあげていく、再生の可能性を描いた話です。「ホロコーストの残酷さはほんのわずかで、希望と明るさのある少年の話なのに、すぐ“ホロコースト”で括って、その写真を使う無神経さ、画一的な見方、アメリカでも一流出版社から出るというのに、せいぜいその程度の見識しかないのかと思うとがっかりだ。装丁だけは何とか替えてもらうようかけあったけれど、日本の本はいつも装丁・造本ともに素晴らしい」と言っていました。

ホロコーストを題材にした作品の中では、苦難に立ち向かっていく、想像を越えるほどの少年のたくましさや生き抜く力に圧倒されますが、その生きのびようとする力の源泉は何でしょうか?

「砂のゲーム」(岩崎書店 2000.8) 母袋: 「砂のゲーム」(岩崎書店 2000.8)に書いているように、自分を冒険物語の主人公になぞらえて、たとえ今恐怖に震えていても、「これは冒険物語の一場面にすぎない、必ず生き残ってハッピーエンドを迎える」と思いこむイマジネーションの力を持っていたということです。
 『走れ、走って逃げろ』は、ヨラム・フリードマンという実在の人物の話です。いっさいを剥ぎ取られた少年が、あらたに自分の人生を一つ一つ積み上げていく、再生の可能性を描いた物語ですが、単なるドキュメントではなく、オルレブがサバイバルの知恵を、たとえば、虫眼鏡で火をおこすことや、小鳥を捕まえる知恵、森の苔の生え方で自分の帰り道を見つけるなどを巧みに盛り込んでいるから面白くなっているわけで、こうしたたくましさは、多分オルレブ自身も持っているものだと思います。
 子どもというのは、大人以上に基本的にたくましい。生きるということに肯定的で逡巡せず、冒険することをためらいません。だから、苦難の時代にも明るい希望を持って生きられたのでしょう。
ベストセラーを出せるといいですね(笑)
昨年の12月にイスラエルに行かれたそうですが?

母袋: 一昨年(2002年)の夏、両国のシアターX(カイ)が、イスラエルの実験演劇「野ねずみエイモス」を公演したとき、最初からヘブライ語で上演しようということになっていたので、翻訳をお手伝いしました。日本語はどうするかについて、プロデューサーはイスラエル側も日本側も二人とも、イヤホンや字幕は舞台への集中を妨げるといって嫌い、ずいぶんと方法を模索しました。最終的に日本語でナレーションを入れることになり、ナレーターは女優の故・范文雀(はん・ぶんじゃく)さんがされました。
 今回は、イスラエル外務省が「カーテンアップ」フェスティバルを催し、国際交流基金の後援で、日本から演劇・舞踊関係者が招待されました。シアターX(カイ)のプロデューサー上田美佐子さんも招かれて、私は上田さんにお供したわけです。「イスラエルの今」を反映したいろいろな芝居を観たり、演出家や芸術監督や役者さんたちと会ったり、興味深い旅でした。仕事のあとは、エルサレムの友人宅でのんびりし、オルレブ夫妻とも楽しく過ごしました。シアターX(カイ)では、今年の8月に、今回の旅で観た「ファーレンハイム」というイスラエルの仮面劇を招いて公演します。ぜひ、皆さんにいらしていただきたいです。

舞台監督、女優、上田さん、外務省担当官と ワルシャワ・ゲット-蜂起を記念する浮彫

現在も翻訳家としてご活躍されていらっしゃいますが、今後母袋さんが目指すものは何でしょうか?

母袋: ベストセラーを出せるといいですね(笑)。出版事情がきびしくて純文学を出す出版社が少なくなっていたり、今のイスラエルの政治事情などで翻訳出版が難しいんです。でも、いい作品は必ず「目利き」の目に留まるはずだと信じています。今後の出版予定は、『ユダヤ頭脳の謎』。私にとっては専門外なので共訳で進めています。ほかに、旧約聖書の伝承民話の雑誌掲載やイスラエル内アラブ人をテーマにしたヤング・アダルトものなども進めています。8月公演の「ファーレンハイム」はイスラエルが誇るノーベル賞作家シャイ・アグノン(1888~1970)の格調ある作品ですので、そちらにも力をそそぎたいです。

母袋さんご自身の健康法は何ですか?

母袋: 私は腰痛がひどくて、40代前半に背中に問題ありと言われ、50代に実際にヘルニアをやりましたが、水泳で治しました。ですから、週に2回のプール通いは、欠かしたくないですね。

最後になりますが、座右の銘にしている言葉がありましたらお願いします。

母袋: 私はものごとを肯定的に見たいほうですね。座右の銘という言葉を好まないのですが、エーリッヒ・フロムの著書『自由からの逃走』の巻頭にも掲げられている、タルムードのピルケイ・アボットにある言葉が好きです。ちょっと長いですが引用すると“もし私が、私のために存在しているのでないとすれば、誰が私のために存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。もしいまを尊ばないならば----いつというときがあろうか。”
 つまり、人生を自分のものとして見据えて生きないなら、いかほどの人生であろう?ということでしょうか。


TonTon インタビューを終えて

 約60年前(ホロコーストの時代)と今、そしてイスラエルと日本を比べることは、状況があまりに違い過ぎます。しかし、愚問と知りながら母袋氏に恐る恐る「今の子どもたちにも苦難に向かって生き抜く力はあるのでしょうか?」と投げかけてみると、「私は、あると思う」という嬉しい言葉が返ってきました。「なぜなら、子どもたちには基本的に希望があるから、子供たちには生き抜く本能があるのです」と。その言葉に日本の未来に希望が湧いてきました。
 インタビューの中では「今、やらなければ後悔すると思うから」という言葉を何度もお聞きしました。その「やるなら今しかない」という姿勢や、人生に悔いを残さないように行動する生き方には本当に敬服いたします。大人でも決して諦めずに、希望を持って人生を愉しみながら、時代の波を生き抜くことが大事であると痛感しました。


母袋夏生(もたいなつう)氏のプロフィール

 1943年長野県生まれ。1965年東京学芸大学卒業。1970年~74年、イスラエルに留学。ヘブライ大学文学部修士課程実用言語コース修了。
 主な翻訳作品に『ぼくたちは国境の森でであった』(ダリア・コーヘン作/佑学社1992)、『お願い、わたしに話させて』(レナ・キフレル=ジルベルマン作/朝日新聞社1993)、『壁のむこうから来た男』(オルレブ作/ 岩波書店1995)、『編みものばあさん』(オルレブ作/径書房1997)、『ブルーリア』(シャハル作/ 国書刊行会1998)『心の国境を越えて』(ガリラ・アミット作/さ・え・ら書房1999)、『羽がはえたら』(オルレブ作/ 小峰書店2000)、『砂のゲーム』(オルレブ作/ 岩崎書店2000)、絵本『Tシャツのライオン』(オルレブ文/ 講談社2001)(『走れ、走って逃げろ』(オルレブ作/ 岩波書店2003)他、翻訳書が多数出版されている。
 1994年「世界ヘブライ文学翻訳者大会」に招待される。1998年にイスラエル翻訳賞奨励賞を受賞。