年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生


ぴーぷるインタビュー Vol.17 常磐津に導かれた不思議な人生の軌跡…
音楽好きの少年時代から、常磐津との出会い

まず、「常磐津」とはどのような芸能か、お聞かせください※1。

素晴らしい伝統を廃らせたくない!と熱く語る千代太夫氏。
千代太夫氏(以下、敬称略):明治・大正時代、常磐津は今で言うところの「演歌」のようなものでした。娯楽だったのですね。常磐津のお師匠さんは女性が多かったから、「あそこに美人のお師匠さんがいるから、行こう」という感じで旦那衆や職人の方々が集まってお稽古して、その後、どこかに飲みに行く……という感じ。オトコはいつの時代もスケベェにできているのです(笑)。今でももっと流行ってもいいと思うのだけど。

(※1)常磐津とは?
江戸時代に生まれた三味線伴奏の語り物音楽(浄瑠璃)の一種。日本の重要無形文化財。延享4年(1747)、初代常磐津文字太夫(1709-1781)が創設した。ルーツは、宮古路豊後掾(みやこじ・ぶんごのじょう)を始祖とする江戸における語り物音楽である豊後節。豊後掾は関西の語り物音楽である一中節(いっちゅうぶし)の門下にいたが、師から独立して江戸に進出する。しかし風紀上の理由から幕府にその演奏を禁止されてしまい、京都に戻って間もなく没する。常磐津節は、江戸に留まった豊後掾の弟子たちがさまざまに姓を変えて分派独立した一流派。常磐津は語りと唄との均衡が取れ、整然とまとめられた「落し」と呼ばれる旋律を持ち、長唄との掛合や風俗舞踊、歌舞伎踊りにはなくてはならない音曲とされる。代表作に「関の扉(と)」「戻駕(もどりかご)」「将門」「乗合船」などがある。


師匠はどのような経緯で常磐津の世界に入られたのでしょうか?

千代太夫:千代太夫:それがね、常磐津の「と」の字も知らなかったんですよ(笑)。小さい頃から音楽が好きで、漠然と音楽の仕事に就きたいと思っていました。バイオリンと声楽をやりたいと思ったのだけど、なんてったって生まれが山形の米沢の田舎でしょ。先生もいないわけ。でもいろいろ探したら、たまたまバイオリンの先生が見つかってね。

当時、バイオリンを習うということは、相当にハイカラなことだったのでは?

幼い頃は音楽を愛し、バイオリンを演奏するハイカラ少年だった。
千代太夫:ハイカラもハイカラよ。ましてや山形の米沢ですからね。朝8時半からの学校に間に合うように6時半に起きて1時間レッスンして……という生活をしていました。その頃は独学で「サンタルチア」などのイタリア民謡も歌っていたのですよ。

バイオリンにサンタルチアとは意外な常磐津の原点!

千代太夫:中学を卒業した後は、東京に出て音楽学校に入学しました。上京した時、ちょうど松川事件(※2)の起きた列車に乗っていてね。私は後ろのほうに乗っていたから大丈夫だったのだけれど、前の運転席の方から「うー、うー」ってうめき声が聞こえて「ああ、あれは、ダメかもしれないね」なんて周囲の人と話したりしました。当時は、それこそ米一斗しょって東京に出てきたんですよ。でもヤミ米として大宮で没収されちゃってね(※3)。そういう時代だったのですよ。

(※2)1949(昭和24)年8月17日、福島県信夫郡松川町(現在の福島市)で起きた意図的な鉄道のレール外しによる列車往来妨害事件が発生。下山事件、三鷹事件と並び、戦後の日本国有鉄道(国鉄)の三大ミステリーの一つと言われ、事件の真相を巡り世論の関心が高まった。

(※3)当時「ヤミ米」は貴重な現金収入源だった。戦時中の食糧管理法のもと、政府が米の買入・配給を独占していたが、米代金の支払いの遅いことに不満をもった農家の多くは、味の悪い米を政府に出荷し、味のよい米は違法を承知でヤミ米として政府外に現金で売った。


時代を感じさせますね。音楽学校では何を学ばれたのですか?

千代太夫:バイオリンと声楽を習いました。そのうち父が亡くなりまして、資金が届かなくなり一度米沢に戻ったのです。その後、戦前の蒙古開拓団で活躍した故・加藤完治先生(1884 - 1967)が米沢に講演で訪れたときに、お願いをして書生ということで東京に連れていってもらいました。かばん持ちですね。2、3年くらいやりました。それで「君、きれいな声をしているから常磐津ってものをやってみないか」と加藤先生に言われて。「常磐津って、何ですか」って言っていたのですが(笑)。

「芸を見て覚えるもの」内弟子時代に学んだこと

加藤先生の一言がなかったら、常磐津の世界に入ることはなかった・・・・・・

80年代、チェコのスメタナ劇場に招待された際、東京五輪の体操の女王チェフラスカヤと。
千代太夫:そうですね。それがきっかけで東京・柳橋にいらっしゃった常磐津の三味線方の家元で、先代の故岸澤式佐(きしざわ・しきさ)師匠の内弟子に入ったのです。17歳くらいですかね。そのときは何も教えてもらえなくて、お師匠さんの横に座ってお稽古を3時間くらいじーっと聴いている生活。それで、ある日突然「やってみろ」って言われて。何も出来ませんでしたよ。その時、随分しかられましたね。「芸は聞いて、見て、覚えるものだ」と

はじめは常磐津の三味線方の家元に弟子入りなさったのですね。

千代太夫:でも、やっぱり唄がやりたくてね。結局、唄方の故・常磐津千東勢(ちとせ)太夫師匠に弟子入りしたのです。今の私があるのはこの師匠のお陰です。本当にいろいろなことを教えていただきました。お稽古も良くして下さいましたし、料亭遊びなんかもね。こんな素晴らしいお師匠さんはいません。本当に感謝しています。

昭和30年代頃は、たくさんの歌舞伎の公演に出演されたのです。

千代太夫:東京の歌舞伎座だけでなく地方の劇場にも出ました。大阪、京都、名古屋などいろいろね。戦後、大阪で武智歌舞伎を初演した時は劇場の楽屋に泊り込んで自炊して暮らしましたが、蚤やシラミがひどくてね。かゆくて夜も眠れませんでした。

随分ご苦労されたのですね。

千代太夫:こんなに内弟子で苦労するのはわたしの代で終わりですね。いまはこんな苦労をする人はいないでしょう。いろいろ便利になったしね。

舞台の傍ら家庭料理屋を開店、さまざまな芸人との交流

昭和45年、舞台を務める一方で、奥様と一緒に現在の家庭料理屋
「お腹袋」の前身である「千代の店」を池袋に開かれたのですね。

‘99年「お腹袋15周年記念」演奏会では、落語家・柳家小さん師匠もお祝いに一席設けた。
千代太夫:このお店はたくさんの役者さんたちに来ていただきました。故・(尾上)梅幸さん、現・菊五郎さん、今の中村勘三郎さん、当時は勘九郎さんね。そして噺家さんなども。とくに柳家小さん師匠にはとてもかわいがっていただきました。演芸場で公演が終わった後や剣道の稽古帰りなど、お弟子さんをたくさん連れてうちに飲みに来てくれて。午前2時くらいになると、「よし新宿行くぞ」ってね。朝方まで飲みましたね。あの頃、コマ劇場前のビルの地下にプールがあったのですよ。よくそこで二人で泳ぎましたよ。

小さん師匠とプールですか!

千代太夫:うちの店に来て食事をして、その後新宿のプールでひと泳ぎして、今度は近くのクラブで飲んで帰るの。よくやりましたよ。

小さん師匠はたくさんお酒を飲まれたのですか。

千代太夫:お強かったですね。日本酒をよく飲まれました。大きなコップで6杯くらい飲んでも、ぜんぜん酔わない。あの頃は50代で飲み盛り。若かったですからね。あの頃が最高に楽しかったですね。故・馬生師匠や馬之助師匠、当時のかえる、今の馬風師匠など大勢の噺家さんたちが見えました。

何だか、いい時代ですね。

千代太夫:昔は仕事を精一杯やっても、余裕がありました。人生楽しいことたくさんできたけど、今はそういうことあまりないみたい。今の芸人さんはかわいそうですよ。昔は料亭なんかもお客さんが招待してくれたし、ご祝儀もあった。今は飲みに行くと気を使うだけで嫌だな、という芸人さんは多いですよね。

その後、神楽坂にお店を移したのですよね。
「お腹袋」の名付け親は、小さん師匠とか?

「お腹袋」の名のイメージとなった奥様との
ツーショット。
千代太夫:うちの奥さんのイメージから、小さん師匠が付けて下さったのです。「おふくろ」ってひらがなより「お腹袋」って漢字で書いたほうが気を引くでしょ。暖簾の文字も小さん師匠によるものです。

神楽坂という街も、昔と今では変わったのではないですか?

千代太夫:昔は「山本」という料亭がありましてね。そこに連れて行ってもらって雪見酒を飲んだりしました。窓からちらちらと雪が見えて、灯篭があって、芸者さんと一緒に世間話をしてね。風情がありました。その他、柳橋、新橋、赤坂と……とても楽しく懐かしい思い出です。いまはどこでもビルになっちゃいましたから、そんな風情もなくなりました。

お料理はどのように覚えたのですか?

千代太夫:料亭やお寿司屋さんに連れて行ってもらった時に見て覚えました。カウンター越しから眺めてね。料理もお刺身も常磐津のお稽古と一緒ね。あんこうの一本切りも水戸に見に行って覚えちゃいました。もともと好きなのですね、きっと。

見ているだけで覚えられるものなのですね。

千代太夫:なんでも恐いからできないではなくて、自分からどんどんやって覚えなくちゃ。いろいろな人に会って、話しを聞くことも大事。いいものは取り入れて、悪い部分は反面教師にすればいいの。だからわたしは毎週日曜日は銀座に出て、いろいろなものを食べて、本屋をぶらぶらして、情報収集するんですよ。

古典芸能を後世にまで……常磐津の継承に努める日々

稽古中の表情は真剣そのもの。
時折、師匠の厳しい指導が入る。

毎週土曜日は、常磐津教室を開いていらっしゃいますね。

千代太夫:私のお弟子さんたちはとても熱心です。お稽古の後はみんなでお酒を飲みながら、今日のここは良かった、あそこはダメだった、なんてその日の反省会をするのです。常磐津に興味がある方は、ぜひ一度見学にいらしてください。新しいお弟子さんも受け付けています。体力も使うし、健康にいいですよ。一人でも多くの方に常磐津を知ってほしいと思います。

まったくの素人でも常磐津を始めることはできますか?

千代太夫:できますよ。わたしだって、もともと素人だったんだから。何にも知らなかったんだから。

常磐津協会(※)が主催した公演もありますよね。

千代太夫:土曜日稽古をしているときにいらしてください。お聞かせします。常磐津はこういうものです、という説明もしますよ。

常磐津はどこで聞けますか?

千代太夫:そうですね。そういったところでお聞きになるのもいいでしょうね。でもうちのお稽古に来れば、解説付きですよ(笑)
(※)常磐津協会ホームページ:http://www.tokiwazu.jp/

常磐津の魅力を教えてください。

千代太夫:とにかく一度聞いてみてください。CDもありますよ。説明はその後です。こんな素晴らしい芸はないです。何も分からない人のほうが、かえっていいの。素直に入れますから。女性、子ども、おじいちゃん、おばあちゃん、大歓迎です。こういうことやっていると、ボケないですよ。


「お腹袋」データ(兼・常磐津教室)
【住所】 〒162-0825
東京都 新宿区神楽坂1-11-2
【電話番号】 03-3269-3638
【交通】 JR総武線/飯田橋駅(西口)徒歩3分
営団地下鉄東西線・南北線・有楽町線/
飯田橋駅(B3出口)徒歩1分
都営地下鉄大江戸線/
飯田橋駅(営団地下鉄B3出口)徒歩5分
【営業時間】 16:00~22:00
【定休日】 土曜日・日曜日・祝日
※常磐津教室は毎週土曜日(約1時間30分)。
詳細は上記までお問い合わせ下さい。

千代太夫さんを師匠と仰ぐ 法制大学教授 渡辺 善之先生からも一言!
 大学ではシェイクスピアを中心とするエリザベス朝演劇、20世紀の演劇、映画などについて教えていますが、学生時代から義太夫を習い、最近はもっぱら常磐津を趣味として続けています。はじめたきっかけはこの方面に造詣が深かった父親の影響です。今から6年程前、師匠が神楽坂で常磐津教室を開いているというのを聞きつけ、押しかけて以来ずっと稽古をして頂いています。現在は週に1回師匠に稽古を受けて、そのテープを聞きながら毎日1時間ほど自宅で稽古をしています。千代太夫師匠の芸もお声も本当に素晴らしいものです。ぜひ師匠のこれまで残された演奏をCDにして後世に伝えたいとも思っています。
 文楽(人形浄瑠璃)で語られる義太夫節は元禄期に上方で成立しましたが、先行の古浄瑠璃の語りが良くも悪くも単調なものであったのに対し、創始者・竹本義太夫は登場人物が死んだり、泣いたり……劇的な演出と高揚感のある語りで人気を博しました。言ってみれば義太夫は西洋音楽の世界で言うところの「ベートーヴェン」。既存のものに新しい風を吹き込んだ当時のアヴァンギャルドだったのです。さらにそこから発展して江戸浄瑠璃として「粋」「洗練」「品格」といったものを押し出したのが常磐津節、西洋音楽流には「モーツァルト」と言えるでしょう。
 成瀬巳喜男の『流れる』という映画がありますが、この中で柳橋の芸者に扮する山田五十鈴と杉村春子が「神田祭」を弾き語りで稽古するシーンがあります。こちらは常磐津節ではなく清元節なのですが、当時の浄瑠璃の受容が映像としてよく分かる一例です。




インタビュー後期後記

何でも気さくにお話しして下さった師匠ですが、お稽古中のお姿はさすが師匠の風格!(当たり前? )その深く伸びやかな歌声に、素人ながら感じ入りました。戦後の動乱期、不思議な縁に導かれるように常磐津の世界に入っていった師匠の軌跡を伺っていると、「人間の一生というのは、どこでどうなるか分からないものだ」と改めて人生の面白さというものを感じたのでした。