年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生


ジャズ生活55年。日本のジャズ界の発展とともに人生を歩んできた。
バリトンサックス奏者 原田 忠幸 氏
現在の日本ジャズ界において貴重なバリトンサックス奏者、原田忠幸氏―。若い時、日本に大きな影響を与えたレイモンド・コンデ氏にクラリネットの手ほどきを受け、戦後、爆発的人気を博したレイモンド・コンデとゲイ・セプテットのもとで修行を積んだ。その後、原信夫とシャープスアンドフラッツへの入団を機にバリトンサックスに転向、2010年にジャズ生活55年目を迎えた。戦後の日本のジャズブームを振り返りながら、ジャズとともに人生を歩んできた原田氏の足跡をうかがった。
原田少年は京都に生まれ、野球に熱中し、周囲にはたくさんのミュージシャンがいた
原田忠幸さん(注①)は、現在日本ジャズ界のバリトンサックスの分野において最高の地位を占められています。現在の主な活躍の場所はどのようなところでしょうか?
原田氏(以下、敬称略):さまざまな場所で演奏をしています。主に前田憲男さんが主宰する「ウィンドブレーカーズ」で仕事をしています。それ以外ではジャズ・ライブハウスやコンサート、またスタジオでレコーディングなどの仕事も手がけています。
(注①)原田忠幸氏。1936年7月30日京都生まれ。父親や兄弟の影響から音楽の世界に入る。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」や「ウエストライナーズ」などで活躍。その後渡米、ロサンジェルス、ラスベガスで活動し、1971年から日本に居を構え、自己のグループ「ザ・ハーツ」を結成しつつ、フリーでTV、コンサート、ライブハウスでの演奏と多方面で活躍中である。また、海外アーティストからの信用も厚くフランク・シナトラ、マレーネ・デートリッヒ、フォー・フレッシュメン、サミー・ディヴィスJr.、ライザ・ミネリ、ヘレン・メリル、サリナ・ジョーンズ、ローズマリー・クルーニー、アニタオディなど多くの海外アーティストと共演した。
お生まれは京都なのですね。
原田:ええ、親父(ジミー原田氏注②)の仕事の関係で京都が住まいでした。兄弟で僕だけが京都生まれです。中学を卒業するまで、京都で過ごしています。今でも、当時の友達と交友が続いています。その後は、横浜に移り住んで、今は大森が自宅です。
(注②)原田さんの父親はドラマーのジミー原田さん(本名:原田譲二)(1911~1995年)。戦前に京都で自楽団を持ち、関西圏で人気を博した。戦後、上京して各方面で活躍、後年「ジミー原田&オールドボーイズ」を編成、人気バンドになった。長兄はドラマーの原田イサムさん。現在も現役としてライブハウスやコンサートに出演、精力的な活動を行なっている。
子供の頃の話をうかがいます。子供心にもミュージシャンを目指していたのですか。
原田:とんでもない。子供の頃は野球、野球で過ごしました。できれば野球選手になるのが夢でした。それが、戦後父の仕事の都合で上京することになり、そうも言っていられなくなって、音楽の道を歩むことになったのです。京都時代、家に親父のバンドメンバーが多く居候していました。環境がそうですから、ミュージシャンになるのは、自然といえば自然なスタートでした。
 僕の父は英国人でしたから、僕たち兄弟は子供の頃、よく意地悪やいじめに遇いました。仲間はずれになることもあって、楽器をいじることができたのは、ある意味幸いでした。音楽があったからこそ、変な道に進むことは避けられました(笑)。

戦後の混乱期からスタートしたミュージシャン人生

ジャズの道に入ったとき、父上であるジミーさんのアドバイスや指導があったのでしょうか。
最初の楽器は父親が買ってくれたクラリネットだった。当時人気を博したレイモンド・コンデ氏の手ほどきを受けた。
原田:影響とかアドバイスは全く受けていませんね。何をしようが干渉しない父で、自分のことは自分で責任をもって解決する、というのが主義でした。主義といったら格好よいのですが、無責任だったと言えないこともありません(笑)。ただ、当時ミュージシャンの世界ではいい加減な人や、自堕落な人も結構多かったのです。
 しかし父は、社会的にはとても硬い面がありましたね。だから当時も人気があったパチンコや、賭け事は一切やりませんでした。面白い話があります。一度「パチンコに行ってきた」というから、何故と聞いたら、「タバコ屋がなくて、パチンコ玉を買ってタバコと交換してきた」と(笑)。僕は父の仕事に対する厳しさとか、誠実さは常に目にしていました。父の背中を見て育ちました。
音楽人生のスタート時、楽器は何を選んだのですか。
原田:中学を卒業すると、親父がクラリネットを買ってくれたのです。父の仕事の関係で、手ほどきは当時人気絶調だったレイモンド・コンデ(注③)さんに教わりました。厳しい指導でした。その縁でゲイ・セプテットのバンドボーイをやりながら、先輩たちのテクニックを学んでいきました。その頃のレイモンド・コンデさんのゲイ・セプテットの人気は爆発的で、それがジャズブームの走りになったのです。2年ほどバンドボーイをやりました。
(注③)レイモンド・コンデ(1916~2003年)。日本のジャズを育てたといっても良いフィリピン人のクラリネット奏者。コンデ3兄弟(レイモンド・コンデは末弟)は戦前に来日して、戦後も日本のジャズ界に大きな影響と足跡を残した。特にナンシー梅木が専属歌手だったゲイ・セプテットは大人気で、日劇で行なわれた「ゲイ・セプテットを含んだジャズコンサート」では熱狂的なファンが劇場を取り巻いたという伝説がある。
その頃、日本のジャズ界はどうだったのですか?
原田:戦後になってまだ間もなく、ジャズブームになる直前でした。南里文雄とホット・ペッパーズ、渡辺弘とスターダスターズ、ゲイ・クインテットなどがバンドを立ち上げていましたが、一般のジャズメンは仕事も少なく、苦労した時代だったと思います。
 一方、力のある日本のジャズプレーヤーは進駐軍の仕事で一杯でした。毎日、東京駅北口や新宿駅南口に行けばメンバーをアレンジする人が居て、米軍の各方面のクラブに派遣されました。当時はまだ食糧事情も悪く、米軍での仕事はギャラ以外に、コーラやハンバーガーなども食べられて、それなりに恵まれた環境でした。昭和25、6年頃で、その後は空前のジャズブームになっていきました。
当時のヒット曲はどのようでしたか。
原田:戦後間もなくはレス・ブラウンの「センチメンタル・ジャーニー」やドリス・デイの「ボタンとリボン」「アゲイン」や、グレン・ミラーの「茶色の小瓶」「ムーンライト・セレナーデ」やベニー・グッドマンの「レッツ・ダンス」「グッドバイ」などダンスブームもあって、大変な人気でした。ダンスホールはどこも満員で、フルバンドはひっぱりだこ。お蔭様で僕も横浜の「クリフサイド・クラブ」などで演奏するようになりました。その頃はアルト・サックスを吹いていました。

〈写真左〉クリフサイド・クラブで演奏していた頃、楽屋で練習をする原田氏。この頃はアルトサックスを吹いていた。
昭和30(1955)年に「シャープスアンドフラッツ」に入団されましたね。どういういきさつがあったのでしょうか。また、その頃からバリトンサックスを吹くようになったのですね。
原田:東京丸の内の米軍のバンカスクラブに、コンデさんのバンドが出演していました。原信夫さんは昭和26年にシャープスアンドフラッツを立ち上げ、原さんもそのクラブで演奏していて、控え室が一緒だったものですから、そこで知り合いになりました。僕はコンデさんのバンドボーイを辞めた後、いくつかのバンドで活動していましたが、ある日、偶然にも原さんと電車の中で再会したのです。そこで、「うちのバンドでバリトンサックスで来ないか」と原さんに誘われて、僕はシャープスアンドフラッツに入団しました。
 原信夫とシャープスアンドフラッツは日本で大人気のビッグバンドでした。日本で初めてバリトンサックスを採用することになって、僕がやることになったのです。しかし、僕はバリトンサックスを持っていなかったので、原さんがどこからか借りてきてくださいました。最初は手本もなく、音が出なくて苦労しました。使えるようになると、その面白さが分かってきました。
 バリトンサックスが入ると、フルバンドの音が全然違ってきます。なんと言うか、音に厚みが出てくるんですね。それ以降、バリトンサックス一本、ほとんど独学でやってきました。シャープス時代、江利チエミさんのバック演奏をよくやった思い出があります。シャープスアンドフラッツには2年弱お世話になりました。
昭和30 年、シャープスアンドフラッツに入団した(19 歳)。前列左から2 番目が原田氏。入団を機に、バリトンサックスに転向した。

本格的にミュージシャンの道を歩む
そしてウエストライナーズに行かれ、才能が開花されたわけですね。
原田:昭和32年に「ウエストライナーズ」に入団しました。「ウエストライナーズ」はスタン・ゲッツ、リー・コニッツなどの白人サックス奏者などのスタイル、ウエスト・コースト系の音を目指して立ち上げたバンドです。この前身は高見健三さんが率いる「ミッドナイトサンズ」でしたが、事情があってリーダーが西條孝之介さんに代わって、3管編成で再編成されたバンドでした。当時のメンバーは(故)五十嵐武要さん(D)、五十嵐明要さん(AS)、前田憲男さん(P)、福原彰さん(TP)、金井秀人さん(B)、そしてリーダーが西條孝之介さん(TS)と錚々たるメンバーでした。全アレンジは前田さんがして、毎日のように曲数が増えていきました。数年後、「猪俣猛とウエストライナーズ」になりました。

〈写真左〉昭和32年にウエストライナーズに入団(21歳)。左から(敬称略)、五十嵐武要(ドラム)、原田忠幸(バリトンサックス)、今泉俊明(トランペット)、五十嵐明要(アルトサックス)、金井英人(ベース)、西條孝之介(テナーサックス)、前田憲男(ピアノ)。

〈写真右〉ドラマーが猪俣猛さんに代わって、「猪俣猛とウエストライナーズ」となった。
今年の1月に秋吉敏子さんのCD「TOSHIKO & MODERN JAZZ(トシコ&モダン・ジャズ)」が発売されましたね。

日本のトップ・ミュージシャンたちを率い、秋吉敏子がモダン・ジャズの新しい形を意欲作。昭和39年にTBSホールにて録音された。
原田:そのCDは昭和39(1964)年に演奏したものを再リリースしたものです。ちょうど東京オリンピックの年で、僕が28歳の時です。その頃はジャズ・アーティストの来日がピークを迎えていました。秋吉敏子さんは当時、元夫のチャーリー・マリアーノさん(アルトサックス奏者)と東京とニューヨークを行ったり来たりしていて、有名なベースのポール・チェンバースやドラムのジミーコブと一緒にTBSホールでオーケストラをやろうということになったのです。
 その頃僕はバリトンサックス奏者として、秋吉さんのリハーサルバンドをしていたので、松本英彦さん(TS)、宮沢昭さん(TS)、岡崎広志さん(AS)、鈴木重男さん(AS)、伏見哲夫さん(TP)、日野皓正さん(TP)、鈴木弘さん(TB)など当時の日本を代表するジャズメンで編成されたオールスター・ビッグバンドのメンバーとして参加しました。1曲は秋吉さんの作曲ですが、他はすべてチャーリー・マリアーノさんの作曲・アレンジによるものです。もう40年以上も前になりますが、難しかったのを憶えています。昔のジャケットならもっと良かったのに…。

原田さんのプロフィールを拝見しますと、スウィング・ジャーナル誌の読者人気投票では、「その他の楽器」部門で常に上位にランクされています。

迎賓館の前で当時のメンバーと。左から(敬称略)、今泉俊明(トランペット)、原田忠幸(バリトンサックス)、西條孝之介(テナーサックス)、五十嵐明要(アルトサックス)。
原田:そうですね。あの頃はまだ若かったせいか、いくら吹いていても疲れることを知らなかった。バンドの雰囲気も良かったですし、常に先取りの精神というか、研究熱心な先輩たちに囲まれていて、充実していた時期でもありました。しかし、僕と前田さんが一緒にウエストライナーズをやめることになりました。昭和41(1966)年8月のことです。

ジャズの本場アメリカへ移住する

そして、アメリカに。動機はなんだったのですか。
原田:やめた翌月に渡米をしたのですが、野球選手がメジャーに挑戦したいのと同じような気持ちがあったのと、当時の恋人(雪村いづみさん) がアメリカで唄いたいという夢があって、その実現のため同行したのです。しかし厳しいアメリカの音楽産業のなかで、仕事を見つけるのは本当に大変なことでした。ハリウッドの組合だけで、サックスプレーヤーが5千名近く登録されているのですから。そのうち音楽で食べていけるのは100人くらいの世界です。だから当初、仕事を得るのは至難の業でした。
 その時、手助けをしてくれたのは人気女優のシャーリー・マクレーンさんでした。L.A.のサンタモニカにアパートを借りていたのですが、シャーリー・マクレーンさんには公私とも大変お世話になりましたね。毎週のようにお邪魔して、娘をプールで遊ばせながら手伝いもしました。
 マクレーンさんの自宅で一番驚いたのは、正餐(ディナー)でした。個人の家でこんな豪華なディナーがあるなんて、本当のセレブな生活というのはこういうものなのかと度肝を抜かれる思いでした。家内もマクレーンさんのお陰で、アメリカの人気テレビーショーに度々招かれ、出演しました。ジョニー・カースン・トゥナイトショー、エド・サリバンショー、ダニー・ケイショー、ダイナ・ショアショー、マイク・ダグラスショーなどです。多分、アメリカのショーに出演した日本人歌手では一番多かったのではないでしょうか。
 僕は少しずつですが人脈もでき、スタジオの仕事を中心にショーや映画音楽の伴奏などの活動をするようになりました。アメリカの音楽産業をみてつくづく感じたのは、スケールの大きさでした。音楽的、技術的落差はもとより、設備の点でも日本と比べ別格というか、その差の大きさを感じないわけにはいきませんでした。
アメリカでの楽しい思い出にはどんなことがありますか?
原田:ネバタ州リノでの仕事は、その当時大変有名なシャーターレストランハウスクラブでした。その時のショーは、名作『雨に唄えば』でジーンの相手役になったドナルド・オコーナーさんのショーです。オコーナーさんはダンス・唄・俳優と黄金時代のハリウッドの大スターです。彼とフレッド・アステアー、ジーン・ケリーの3人は今でも伝説になっています。オコーナーさんはとても魅力的な方でした。そのショーに雪村いづみさんはヴォーカリスト、僕は伴奏で出演していました。
 ある時、オコーナーさん夫妻とコーラスの人たちに「君たち結婚したの?」と聞かれて、僕たちは「まだです」と答えると、「リノにいる間に結婚式をあげよう」ということになって、オコーナーさん夫妻とコーラスの人たちが立会人になってくださり、無事結婚式を挙げることができました。大感激でした。式の前日に、独身最後の日ということで男性は男性、女性は女性に分かれて、翌日のチャペルの式の時まで隔離するのです。一晩中酒を飲んだり、話をしたりで、翌日の式には僕はまだ酔っていました(笑)。このような結婚式はアメリカ全土のしきたりではないのでしょうが、おかげさまで心温まる貴重な想い出となりました。
それは思い出に残る結婚式でしたね。
原田:その頃僕たちはロサンジェルスのサンタモニカのアパートに住んでいました。オコーナーさんはサンタモニカの最高級地に住んでいて、僕たちのアパートから車で10分くらいの距離だったのでランチに誘っていただいたこともあります。また、僕では絶対行けないような高級ゴルフクラブにも連れていっていただいたことがあります。オコーナー邸から10分くらいでサンセット・ブルーバードの海に面したきれいなコースでした。その素敵なオコーナーさんも近年お亡くなりになり、長い歳月が経ったのだとしんみりした気持ちになります。オコーナーさんには本当に感謝しています。

<写真左>1967年1月、ネバタ州リノで原田氏は雪村いづみさんと結婚した。

<写真右>アメリカではショーや映画音楽の伴奏などをしていた。

L.A.の生活は大変だったわけですね。遊びに行ったわけではないのですから。
原田:そうなんです。かなり大変でした。でも日本から絶えず友達が来ていて、その対応も結構大変でしたね、正直(笑)。アメリカのアパートの一部屋は、日本の倍以上のスペースがあるわけで、友人達は「ター坊はアメリカでよい生活しているんだ。こんな立派なアパートに住んでいるのだから」と思ったようでしたが、実際、それは大変なものでしたよ。人に言えない苦労も結構ありましたよ(笑)。でも、アメリカでの生活は苦労もあったけれど、幸せで楽しいことも沢山あって、良い経験でした。

活躍の場を求め、ラスベガスからハワイ、そして日本へ

その後ラスベガスにも行かれてますね。
原田:L.A.には1年半ほどでしたか。これ以上、L.A.に居ても仕事が少ないので、知人からのオファーがあってラスベガスに行くことに。さすがにラスベガスはショービジネスの本場です。仕事をするにつれて、プレイヤー、ボーカリストをはじめ知人、友人も次々に増え、その後日本に戻ってからの仕事上でも大きな財産となりました。また、有名歌手やバンドに直接触れましたから、僕自身それらの栄養素をたっぷり吸収できました。日本では絶対に経験できないことですから。
ラスベガスは良い環境だったとお聞きしましたが、3年後帰国されました。
原田:そうなんです。アメリカの永住権も取得して、家も購入しました。またハワイでの仕事もありましたし、ラスベガスで腰を落ち着けるつもりでした。しかし、家内の事務所から、帰国要請の連絡が度々はいって、やむなく一時帰国することになったのです。もちろん、もう一度戻るつもりでしたから、家も売却せず知人に管理を頼んでの帰国でした。しかし、帰国したら仕事のオファーが多くて、戻るチャンスを逸してしまったのです。数年後、とうとうハワイで永住権を放棄することになったのは、断腸の思いでしたね。
 その後、平成6(1994)年に「猪俣猛オールスターズ」のアメリカ・ニューヨーク公演に参加しました。会場はカーネギーホールとアポロシアターでしたが、久しぶりにアメリカの空気に触れ、懐かしかったですね。


再び、日本のジャズ界で活躍
原田さんがアメリカで一番得たものはなんだったのでしょうか。
原田:アメリカでは、音楽的に上手いだけで終わってしまう人がいくらでもいます。アメリカで成功するためには、いかに個性を出すかが勝負です。たとえば、テレビだと誰が演奏しているか一目でわかりますが、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーン、デューク・エリントンバンドなどは、ラジオで音を聴いただけですぐ演奏者がわかるわけです。なぜなら強烈な個性があるからです。アメリカではそれぐらいの個性が必要だということです。アメリカのミュージシャンは上手いのは当たり前。だけど、プラス個性がないと這い上がっていけないということを実感しました。
その後はジャズファンの方はご存じのように、日本で最高のバリトンサックス奏者として活躍されています。
原田:アメリカで学んだことを日本で試すために、僕はすぐに「ザ・ハーツ」を結成したのです。なぜいきなり作ったかというと、今までとは違う、僕がイメージした個性を出したかったからです。それまで日本では考えられなかったトランペット4本、サックス2本という変わった編成のバンドです。また平行して前田憲男さんが主宰する「前田憲男とウィンドブレーカーズ」にも参加しています。このバンドも日本ジャズ界のトップクラスのミュージシャンが集まっていますから、いつも素晴らしい迫力と音色で皆さんが喜んでくれています。機会があったら是非ライブハウスにいらしてください。きっと満足いただけると思います。

帰国後、ザ・ハーツを結成。メンバーは、前列左から(敬称略)、稲葉国光(ベース)、小川俊彦(ピアノ)、篠原国利(トランペット)、中牟礼貞則(ギター)、後列左から、原田イサム(ドラム)、中嶋泰三(トランペット)、伏見哲夫(トランペット)、福島照之(トランペット)、原田忠幸(バリトンサックス)、鈴木重男(アルトサックス)
原田さんが今までジャズ界に貢献されてきたことは紛れもない事実と認識しています。今も現役バリバリのご活躍ですが、これからどのようなお気持ちで活動されていくのでしょうか。

演奏中の「前田憲男とウィンドブレーカーズ」。メンバーは左から(敬称略)、荒川康男(ベース)、前田憲男(ピアノ)、数原晋(トランペット)、稲垣次郎(テナーサックス)、河東伸夫(トランペット)、西山健治(トロンボーン)、斉藤晴(テナーサックス)、原田忠幸(バリトンサックス)、ドラムはその都度違います。

2009年11月1日、FUJITSU CONCORD JAZZFESTIVALにて。左から、杉原淳(アルトサックス)、五十嵐明要(アルトサックス)、原田忠幸(バリトンサックス)。
原田:僕自身プロとして演奏し始めてから、今年(2010年)で55年目を迎えます。これまでご指導、お世話になった先輩(故人を含む)がたくさんいらっしゃいます。現在もプレーをしていられるのは、素晴らしい先輩、同僚に助けられているからです。
 年齢順でいくと、原信夫さんをはじめ、西條孝之介さん、五十嵐明要さん、中牟礼貞則さん、稲垣次郎さん、前田憲男さん、稲葉国光さん、田中彰さん、猪俣猛さん、杉原淳さん、その他大勢の方々に感謝の気持ちでいっぱいです。少しでも長く楽器を吹いていられるようにからだに気をつけます。

原田:また、海外アーティストでは、フランク・シナトラ、アニタ・オディ、クインシー・ジョーンズ、ナタリー・コールなど超一流のミュージシャンの伴奏もさせていただきました。ちょっとでもミスをすると明日は仕事がない世界ですから、演奏する時のシビアな緊張感は今でも持ち続けています。こうした経験が今に活かされていると思っています。

〈写真右〉1974年6月、フランク・シナトラの武道館コンサートで伴奏を務めた。
原田さんにとってジャズとは?
原田:ジャズと一緒に人生を歩んできたようなものです。親しい仲間と一緒に、好きな曲を思いっきりプレーしている時が僕にとっては至福の時です。これからも吹けるかぎりいつまでも吹いていますよ、僕は(笑)。是非一度ライブ会場にいらしてください。ジャズは愉しいですよ・・・。

親しい仲間と好きな曲を演奏する時が至福の時である。

*本当に長時間有難うございました。益々のご活躍をお祈りいたします。

●本文中の写真はすべて原田忠幸氏にご提供いただいております。

尊敬するフランク・シナトラと一緒に
1974年、85年、89年、91年、92年と5度の来日公演ではバンドリーダーとして共演を果たし、至福の時間を過ごした



1950年代 TBSホールで憧れのジェリー・マリガンに初めてお会いし、いろいろと教わった
1950年代 アニタ・オデイと共演
(TBSスタジオにて)



    1967年 雪村いづみと結婚
1967年 雪村いづみとの結婚パーティー
(左から3番目はドナルド・オコナー)



    1990年代 人生の師とも言える
    ジェリー・マリガンに薫陶を受けた

2012年 ヘレン・メリル(後列左端)を囲んで
左から佐藤允彦さん、原信夫さん、
前田憲男さん、猪俣猛さん


1980年 シャーリー・マクレーンと一緒に
1966年、アメリカ進出したとき、公私共に
お世話になり、感謝している


インタビュー後記

原田さんは日本のジャズファンならば、知らない人は少ないだろう。ただ、演奏中の原田さんは日本人離れした風貌と、あの迫力あるバリトンサックスの音色に圧倒されて、近寄りがたい方と思っていた。ところがインタビューでは、巧みなユーモアを交えて面白い、面白い話をお聞きした。さすがに日米を股にかけて活躍された方と実感した。フランク・シナトラやライザ・ミネリなど、多数の外タレの演奏に関わってきたことをお聞きして、それだけで憧憬の眼差しになってしまう。また、アメリカで生活されていた頃の裏話は抱腹絶倒もの。ますますのご活躍をお祈りする次第です。(吉江記)


原田忠幸(はらだただゆき)プロフィール
1936年 7月30日京都に生まれる。
1946年 レイモンド・コンデ氏にクラリネットの手ほどきを受ける。
1955年 『原信夫とシャープスアンドフラッツ』入団。
1957年 『原信夫とシャープスアンドフラッツ』退団。
1957年 『西條孝之介とウエストライナーズ』参加。
     その後、『猪俣猛とウエストライナーズ』に移行。
*スウィング・ジャーナル誌読者人気投票で毎年ベスト5にランクイン。
1966年 渡米。ロサンジェルスでスタジオ関係の仕事を中心に活動。
1970年 ラスベガスを中心にショーの伴奏など、多くの分野で活動。
1971年 自己のバンド『ザ・ハーツ』結成。
1972年 海外アーティストのバンドアレンジ、指揮、伴奏など多くの活動を行なう。
【共演アーティスト】
フランク・シナトラ、ビッキー・カー、マレーネ・デイトリッヒ、トニー・ベネット、フォー・フレッシュメン、アニタ・オディ、ローズマリー・クルーニ、テンプテイションズ、ナタリー・コール、サミー・ディビスJr.、ヘレン・メリルなど多数。 1979年 『前田憲男とウィンドブレーカーズ』に参加。
1994年 『猪俣猛オールスターズ』に参加。
ニューヨーク、カーネギー・ホール、アポロシアターで演奏。現在は日本ジャズ・バリトンサックス奏者の最高峰として、ライブ、レコーディングなどに多忙な毎日である。


TOSHIKO & MODERN JAZZ トシコ& モダン・ジャズ
(2010.1.20リリース、コロンビアミュージック)
ジャズ・アーティストの来日がひとつのピークを迎えていた1964年に、J.J.ジョンソン・オールスターズの一員として凱旋した秋吉敏子が、チャーリー・マリアーノのアレンジにより、松本英彦、宮沢昭、岡崎広志、鈴木重男、原田忠幸、伏見哲夫、日野皓正、鈴木弘ら当時の日本を代表するジャズメンを集めて編成したオールスター・ビッグバンドによるアルバム。

<収録曲>
1. SHOUT シャウト(C. Mariano)
2. LAMENTO ラメント(J. J. Johnson)
3. KISARAZU JINKU 木更津甚句( 日本民謡)
4. SANTA BARBARA サンタ・バーバラ(C. Mariano)
5. LAND OF PEACE ランド・オブ・ピース(L. Feather)
6. WALKIN' ウォーキン(R. Carpenter)
7. ISRAEL イスラエル(J. Carisi - Arr. C. Mariano)
<演奏>
Piano; Toshiko Akiyoshi ピアノ: 秋吉敏子
Bass; Paul Chambers ベース: ポール・チェンバース
Drums; Jimmy Cobb ドラムス: ジミー・コブ
Japan Jazz All Stars 日本ジャズ・オール・スターズ
海老原啓一郎: 指揮/松本英彦: テナー・サックス/宮沢昭: テナー・サックス/岡崎広志: アルト・サックス/鈴木重男: アルト・サックス/原田忠幸: バリトン・サックス/竹村茂: トランペット/森寿男: トランペット/伏見哲夫: トランペット/日野皓正: トランペット/松本文彦: トロンボーン/片岡輝彦: 卜ロンボーン青木武: トロンボーン/鈴木弘: トロンボーン
Recorded at TBS(Tokyo Broadcasting System, Inc.) 東京放送にて録音(1964 年)
PLAYBOY'S THEME Tadayuki Harada
(2009.7.22 リリース、コロンビアミュージック)
日本のバリトン・サックス第一人者、原田忠幸が1968年のはじめに久しぶりにアメリカから帰国してタクト・レーベルに録音した、数少ないリーダー・アルバムの1枚。日本で演奏していた時から我国におけるナンバー・ワンのバリトンサックス奏者だったが、アメリカに渡り、さらに表現の豊かさとニュアンスが加わり、一層磨きがかかった演奏が堪能できるアルバム。

<収録曲>
1. Theme From The Monkees
2. Sunny
3. Cinnamon And Clove
4. A Whiter Shade Of Pale
5. The Look Of Love
6. Going Out Of My Head
7. Playboy's Theme
8. Constant Rain
9. For Me
10. Mercy, Mercy, Mercy
<演奏>
原田忠幸(バリトン・サックス)、鈴木重男、岡崎広志(アルト・サックス、フルート)、三森一郎、金井陽一(テナー・サックス)、伏見哲夫、大久保計利(トランペット)、根本博史(フルート、バリトン・サックス)、今田勝、前田憲男(ビアノ)、滝本達郎(べ一ス)、猪俣猛(ドラムス)、中牟礼貞則(ギター)、瀬川養之助(パーカッション)ウィズ・ストリング・オーケストラ前田憲男(編曲)
1968年5月1日、2日録音 レーベル:タクト(TaktJazz)
モダン・ジャズ・プレイボーイズ/モダン・ジャズ・ショー・ケース+4
(2009.7.22 リリース、コロンビアミュージック)
1961年に、当時の若手のモダン・ジャズ・プレイヤーたちが、50年代から日本で最も愛好されていたモダン・ジャズの名曲を集め、力をこめて演奏したもの。全12曲。テナーの宮沢昭が最年長の34才、バリトンの原田忠幸とドラムの猪俣猛が25才で最年少であるが、何れも実力的には、トップを争う力量を備えていた。

<収録曲>
ブルース・マーチ/モーニン/ドキシー/チュニジアの夜/プリーチャー/ラウンド・ミッドナイト/ジョージズ・ジレンマ/ウォーキン/死刑台のエレベーター(絶望のブルース)(ボーナス・トラック)/ジャンゴ(ボーナス・トラック)/バグズ・グルーヴ(ボーナス・トラック)/危険な関係(危険な関係のブルース)(ボーナス・トラック)
<演奏>
仲野彰(tp)渡辺貞夫(as)宮沢昭(ts)原田忠幸(bs)杉浦良三(vib)三保敬太郎(pf)藤井英一(pf)金井英人(b)猪俣猛(ds)
編曲:三保敬太郎・藤井英一/1961年5月10日TBSホールにて録音/Track9~12は未発表音源
Midnight Sun 原田忠幸
(2002.9. リリース、Sax)
バリトンの第一人者として君臨して来た原田忠幸のワンホーンジャズがマイナーレーベルのSaxから2002年にリリースされた。ピアノに小川俊彦、ギターに中牟礼貞則、ベースに稲葉国光と超贅沢な布陣。ドラムは若手の高橋信之介という新旧混成のクインテット。よく知られたスタンダードが中心で全13曲、1曲デュオと無伴奏ソロが入る。他に原田がオミットしてギタートリオとソロピアノが各一曲を間に挟む構成。サポート陣の好演と相まったバリトンジャズの優れた逸品。

<収録曲>
1.Playboy's Theme
2.Angel Eyes
3.Here's Theat Rainy Day
4.These Foolish Things
5.Old Fasioned Blues
6.A Nightingale Sang in Berkeley Square
7.I Loves You, Porgy
8.Festive Minor
9.Midnight Sun
10.Beautiful Love
11.Someone to Light Up My Life
12.Prelude to A Kiss-Skylark
13.Danny's Dream
<演奏>
原田忠幸(bs)小川俊彦(p)中牟礼貞則(g)稲葉国光(b)高橋信之介(d)
(2002/4/24神奈川県民小ホール)


■セント・ジェームス(大阪道頓堀)
公演日:2010.3.13(土)LiveTime 20:00~ 

大阪市中央区道頓堀 1-6-12 ニコ-ビル4F
電話:06-6211-1139 
営業時間 18:00~20:00(日曜/定休日)
http://www7.ocn.ne.jp/~st-james/
■原田忠幸JAZZ(京都)
公演日:2010.3.14(日)

(プライベートライブ)
■ソネ(神戸三宮北野坂)
公演日:2010.3.15(月) ステージ 18:50~23:00(4回)

神戸市中央区中山手通1-24-10
電話:078-221-2055
営業時間 17:00~0:30(日曜0:00)
http://kobe-sone.com/sone.html
■スイングシティ銀座(東京銀座)
公演日:2010.3.22(月・祝) ステージ 18:00~

東京都中央区銀座6丁目12-2東京銀座ビルディング
電話:03-3573-7665
http://www.xx.em-net.ne.jp/~swing/
■銀座スイング(東京銀座)
公演日:2010.3.24(水) ステージ 18:45~

東京都中央区銀座西2丁目2番地
銀座インズ2-2F
03-3563-3757
03-3564-1579
http://www.xx.em-net.ne.jp/~swing/
■目黒川さくらフェスタ2010〜ジャズ&ワイン (東京中目黒)
公演日:2010.3.27(土)、28(日) ジャズライブ:14:30~18:30

目黒川船入場(東京都目黒区中目黒1-11-18)
東急東横線・地下鉄日比谷線「中目黒駅」下車3分
問い合わせ先
(平日)目黒川さくらフェスタ実行委員会事務局(目黒区観光・雇用課内)
電話:03-5722-9553
(土・日)めぐろ観光まちづくり協会
電話:03-5722-6850

目黒川さくらフェスタ2009 
http://www.city.meguro.tokyo.jp/area/kyo_konogoro/h20/20090328/index.html