年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生


好きな音楽から進んできたジャズの道。音楽が大好きな仲間たちと家族に囲まれて、“笑いと、美しさと、優しさ”溢れるステージで、演奏する人も聴く人も純粋に愉しくやりたい。自分の人生は、自分で決めて好きなように進めばいい、自然体で生きるのがいちばんだと思うから・・・。 「自分の人生は、自分で決めて好きなように進む」 ジャズとピアニストとアレンジャーと――― 小林洋(こばやしよう)氏
PHOTO/高橋弘

「学校では、音楽の勉強だけは一生懸命やりましたね(笑)」

音楽の道を選ばれたきっかけと、ジャズの道に進まれた経緯を教えてください。

小林氏(以下敬称略):音楽の道に進もうという固い意志はなかったです。中学生のときにブラスバンド部に入って、フルートを吹いていましたが、教室に置いてあるピアノをいたずらでよく弾いていました。どちらかというと、クラシックというよりはポピュラーが好きでした。コードネームを見ながら和音をつけてメロディを弾くようなものですが、ピアノが好きでよく弾いていました。今でもその延長みたいなものです。
 でも、音楽の勉強だけは一生懸命やりましたね(笑)。その後、東京の音楽専門学校で1年間勉強しましたが、友だちに誘われて六本木のジャズ・スクールを見に行ったら、「自分のやりたいものはこれだ」と思って、すぐに専門学校をやめてそのジャズ・スクールに入りました。卒業後はそのスクールの講師になりました。
 そこにはいろいろなミュージシャンが出入りするんです。講師をしているとき「仕事でトラ(※)があるんだけど、やってみない?」と誘いがきたのです。バンドに入れてもらって演奏したのがデビューということになります。そこから仕事が広がっていきましたね。実践としては経験不足でしたが、少しずつやっているうちに、プロの人たちと知り合うチャンスがでてきたのです。

※トラ・・・バンドのエキストラのことで、病気などのときに代理で出演すること

初めてプロとしてステージに立ったときのことを覚えていますか。

小林:吉祥寺の「曼荼羅」というライヴハウスが最初です。昔、銀座のジャズクラブの老舗に「ジャンク」というお店がありまして、お店が終わると従業員が集まってバンドの練習するんです。ぼくも仲間に入れてもらい、そこでピアノを一緒に練習していました。そして、「曼荼羅」に出演してみないかという話になりました。「小林洋カルテット」という4人のバンドで、自分の名前が世の中に初めて出ました。とにかく緊張しちゃいましてズタボロになっちゃった(笑)。いきなり自分がリーダーで出演したものですから、緊張して真っ白になっちゃって演奏がけっこうぶち壊しになってしまいました。これがプロとして、ジャズの道へのぼくの第一歩でした。


「何万人もの前でピアノと息子とパフォーマンスするのは、あれは宇宙だったね(笑)」

「日米野球2002」開幕戦での親子共演のステージを振り返る。
とくに思い出に残っているステージはありますか。

小林:数年前、東京ドームでの野球の開幕戦(日米野球2002:巨人VSメジャーリーグ)のときのステージです。息子(ジャズ・ヴォーカリストの小林桂さん)と2人で出演し、「君が代」を桂君が独唱し、ぼくがピアノ伴奏をしました。ぼくは野球を全然知りませんから、それがどれくらい重要かも知らずに(笑)、仕事をしてしまいました。東京ドームのド真中で2人きりです。息子がデビューして知名度があったからでしょうけれど、普通にジャズやっていても経験できるものではないと思います。
 ある業界の大きなイベントで横浜アリーナでも息子と2人でやりました。そんな多くの人の前でやるという経験がないものですから、何万人もの観客の前でピアノと息子とパフォーマンスするのは、音がブワーっと飛んでいくようで、あれは宇宙だったね(笑)。それはすごく気持ちがよかったね。


「ジャンルにこだわらず、演奏する人も聴く人も純粋に愉しくやりたいんです」

小林洋&室内バンドの演奏風景。優しい音で、美しいメロディ、かつハッピーで楽しいものをコンセプトにしている。(PHOTO/高橋弘)

現在はどのような活動をなされていますか。

小林:うちの家内(ジャズ・ヴォーカリストの村上京子さん)と一緒になって「シャイニー・ストッキングス」という女性コーラスグループを1980年に結成して、そのアレンジとピアノ伴奏をしています。息子がデビューして売れているものですから(笑)、その音楽監督もしています。アレンジャーの仕事と、ジャズ・ピアニストの仕事と、教える仕事と、音楽監督など現在はけっこう多角的にやっています。
 また、今まであまりストリングス(※)というものを入れていなかったのですが、「小林洋&ザ・室内バンド」を結成して、昨年の7月に初めてコンサートをしました。ザ・室内バンドのコンセプトは、「優しい音で、美しいメロディ、かつハッピーで楽しいもの」です。もともと美しいメロディですから、ジャンルにこだわらないお客さんに愉しんでもらいたいのです。仕事では、本格的なジャズをやっているのですが、ぼくが本当にやりたいものは、ジャズとちょっと違ったこういう音楽です。
 ホーム・ミュージックやセミクラシックは基本的にお行儀がよいものです。だけどぼくは、ジャズのもっているユーモアがとても好きです。笑いがないと嫌なんです(笑)。“笑いと、美しさと、優しさ”やはりこれに尽きます。ぶっちゃけた、ちょっとふざけた部分でお客さんをリラックスさせてあげるんです。ときには泣かせるような優しさと美しいメロディを、ときにはリズミックなものを混ぜて、トータルに美しいメロディにしています。ジャンルにこだわらず、演奏する人も聴く人も純粋に愉しくやりたいんです。ぜひライブ演奏を聴きにきてください。

※ストリングス[strings]・・・オーケストラの弦楽器。弦楽器を主体とした演奏。また、その奏者。


「よく息子をどういう風に教育をしてきたか聞かれるけど、まったく教育をしていないんですよ(笑)」

才能を摘み取ってしまうのではなく、個性を伸ばす教育をと熱く語る。
息子さんの小林桂さんですが、「2000年度日本ジャズ・ヴォーカル賞大賞」を最年少(20歳)で受賞し、スイングジャーナル誌「男性ジャズ・ヴォーカリスト部門」連続第1位で、すごい人気ですね。

小林:世の中には才能もあって、環境もいい人もいっぱいいるでしょうけれど、ぼくは運もあると思います。この前亡くなった笈田敏夫(おいだとしお)さんが、業界では日本を代表する男性ジャズ・ヴォーカリストだったんですが、若手が枯渇していたんです。だから、ちょうどタイムリーだったんでしょう。息子のソフトな唄い方が、今の時代に受けたのでしょうか。
 ジャズであろうとなんであろうと、本人がもっている自然体がいちばんいいと思っています。息子にそう教えたわけではないのに、彼は自然体で唄っています。


桂さんがプロになるきっかけはどんなことでしたか。

小林:中学生からブラスバンド部に入ってドラムをやりだしたんです。うちのバンドにはいいドラマーがいたものですから、見様見まねでよく練習していました。耳は抜群にいいですよ。ぼくと全然タイプが違います。ぼくは、ちゃんと系統立てて、なぜこうなっているかという理屈っぽい性格で、だから編曲に向いてるんですね。息子は理屈なしで全部耳で把握しちゃう(笑)。ライヴでドラムがいない編成のときに「お父さん、今日一緒にやっていい?」って言うんですよ(笑)。伴奏パターンも耳で覚え、しかも上手なドラマーのスタイルも見て覚えているからやれちゃうんです。そんな風に一緒にやっていました。天才なのかなぁ(笑)。
 そして彼が17歳のとき、阪神大震災チャリティのCD録音に参加しました。それがきっかけで彼が18歳のときに自分のCDを作りたいと言ったんです。インディーズの会社から半分出資してもらい、半分自費製作で録音しました。そのときのCDに目をつけたのが東芝EMIでした。その後は次々とCDがでました。当初軽い気持ちで本人がやりたいことはやらせてあげよう、ということでしたが、基本的にできるだけ本人に考えさせて決めるようにしてきました。


CD『ソフトリー/Softly』小林桂(東芝EMI)・・・小林洋さんがアレンジを担当、日本が誇る若きエンターテイナーの小林桂さん。 CD『ワンダーランド』小林桂(東芝EMI)・・・小林洋さんが編曲・ピアノを担当、ストリングスとの共演による豪華クリスマス・アルバム。
桂さんには、小さいときから音楽の英才教育をさせたのでしょうか。

小林:ぼくも家内も息子に音楽を強要したことはないです。子どもに親のエゴを押しつけるのが嫌いですから。強要されるのは自分でも嫌いですし、小さいときからできる限り自分の意志で、できる範囲で、できるだけ自分のやりたいようにさせてきました。横道に反れては困るけれど、もうほとんど放任主義です。
 生まれたときから家内が抱っこしながら、ぼくがピアノを弾いて生徒に教えていましたから。それこそ生まれる前から音楽を聴いているわけで、バンドの仲間たちが練習する曲が流れている中で育ってきたわけです。ぼくも家内も音楽的な趣向でしたし、うちに来る連中も好きなことを一生懸命やって、それを仕事にしている人ばかりで、小さい頃から同じレベルで話していました。彼はミュージシャンが来ていろんな話をしているのがとても好きで、宴会ボーイといわれるほど宴会を企画しては、勝手にバンドのメンバーを集めてそこで唄ったりしていました。いいんじゃないですか(笑)。強いて言えば、そういう環境自体がうちの教育ということでしょうか。だから、よく息子をどういう風に教育をしてきたか聞かれるけど、まったく教育をしていないんですよ(笑)。


桂さんはどんなことが好きでしたか。

小林:ミュージカルで、唄ったり踊ったりするのに、とにかく反応しちゃって。彼は3歳にして自分の好きなことを見つけていました。デューク・エリントンのミュージカル・ビデオを、息子も3歳のときに一緒に観てすごく感動して、自分もやろうと思ったらしい。「ミュージカルやりたいから、踊りをおどりたい」って言ったんです。親が強要したというのではなく、自分からクラシック・バレエを習いに行ったんです。うちは共稼ぎで忙しかったので、1人で電車に乗れるようになってから、幼稚園で5歳頃でしたが一駅電車で通って行きました。そこでけっこういい成績を残しました。


「とにかく決めるのは君だから、悔いのないように自分でよく考えて決めたほうがいいよ」

進路のことでなにかアドバイスなさったりしたことはありますか。

小林:彼はクラシック・バレエを中学生まで一生懸命やってきたのですが、13歳のときミュージカル『キッズ・イン・ザ・キッチン』の主役をやらないかという話がきました。彼にとっては願ってもないことで喜んだのですが、クラッシック・バレエの先生に相談したら二足のわらじはだめと言われて、彼は今まで悩むっていうことはしたことなかったと思うけど、そのときおそらく初めて遭遇したんじゃないかな。今まで一生懸命やってきたクラシック・バレエを取るか、今後自分がやっていきたいミュージカルのきっかけになるであろうその仕事をやるかということで、すごく悩んでいました。
 ぼくも相談されましたが、「とにかく決めるのは君だから、悔いのないように自分でよく考えて決めたほうがいいよ」とだけ言いました。本人は相当長い間悩んでいたけど、その先生のところに行って、将来は唄ったり踊ったりと幅広いことをやりたいからと言って、クラシック・バレエはやめることにしました。彼にとって初めて決断を迫られた、いちばん大きなことだった思います。


自分の進む道は自分で決めさせたのですね。

小林:“自分の人生は、自分で決めて好きなように進む”というのがぼくの信念かもしれません。同時に、高校進学をどうするのかという問題がありました。彼は、「とにかくやりたいことがいっぱいあるから時間がない」と言います。また先輩の高校での話をきいて、「やりたくもない勉強をするんだったら、自分は踊りの勉強もしたいし、音楽の勉強もしたいし、とにかく時間がもったいないから、やりたいことをやらせてくれ」と言いました。さすがにぼくも、「高校に行きながら好きなことをやっていけばいいんじゃないかと思うけど、とにかくよく考えろ」と言いました。彼はよくよく考えて、絶対後悔しないからと言って自分で決めました。
 日本では才能を全部摘み取ってしまい平坦になってしまうような気がします。長けているところを伸ばしてあげようとすると、学校ではバランスが悪いと言ってなだらかにしてしまうでしょ。だから、個性が伸びなくなってしまうような気がします。


「親が普通にやっていれば、子どもだって普通に親のありがたみを感じるんじゃないかな」

両親がきちんと働いている姿を見て育ったのですね。

小林:正直いって生活が精一杯でした。桂君が生まれて3ヶ月くらいからベビーシッターに預けて、家内と一緒に仕事に行くんですけど、ふたりで働いてもベビーシッター代を払うために1人分の稼ぎにしかなりません。親らしいことはなにもせずに、好きな音楽をやってきただけなので、親としては本当に申し訳ないという気持ちもあります。
 ついこの間、桂君と小学校の頃の話をしたんです。両親とも夜な夜な仕事をしているので、彼は朝パンなんかをひとりで食べて小学校へ行くんだけど、自分も一緒に寝坊するときがたびたびあったよねとか(笑)。でも、ちゃんと子どもは親の姿を見てたんだね。当時忙しくて、夜バンドの仕事をして帰ってからアレンジの譜面書きの仕事をしていると朝になっちゃうんです。朝起きるといつもお父さんが、前の晩からずっと譜面書いてたね、って言っていました。だから、親が普通にやっていれば、子どもだって普通に親のありがたみを感じるんじゃないかな。



「音楽だったら文句なく自分の気持ちをわかってもらえるかな、と思って」

『聖堂』 小林常雄『墨彩画集』より
小林洋&ザ・室内バンドのライブ録音を拝聴させていただきました。その中の「THE LAST INK PAINTING(最後の水墨画)」は、お父様への想いですね。

小林小林常雄『墨彩画集』にも書きましが、ぼくが尊敬する父は、本当にコツコツものごとを几帳面にやる人で素晴らしいと思います。父はとても無口で、一緒に酒を飲んだりしてもあまりしゃべらないし、母にも言わなかったんだから、何を考えているのか誰もわからないですよね(笑)。
 その父が最後の10年間、死ぬまでずっとあの大きな水墨画を描き続けていました。また、父は昔自分が教育者として、教育者は聖職だと断言していました。サラリーマン的な職業としての先生が多くなっているけれど、自分はそうではないという誇りを持っていましたね。本当に教えるということに意欲をもっていた人でした。そういう父への想いを込めて曲を作りました。


「SILVER WEDDING WALTZ」という銀婚式の曲は、小林さんの愛情が込められているのですね。

小林:昨年の7月に「小林洋&ザ・室内バンド」の初めてのコンサートをしました。実はその日が、ちょうどシルバーウェディング(銀婚式)の日だったんです。いちばん思い出に残るだろうと思って、記念日の曲を作りました。それ以来、その曲をエンディングテーマにしています。
 自分にできるいちばんいいことはなんだろうと、いつも考えるんですよ。ぼくがいちばん自信もってプレゼントできることは、曲を作ることぐらいです。音楽だったら文句なく自分の気持ちをわかってもらえるかな、と思って。


⇒桂太鼓(かつらたいこ)の芸名でドラムを演奏する小林桂さん(PHOTO/高橋弘)(左) ⇒2004.10月、「小林洋&ザ・室内バンド」 の目黒ブルース・アレイ・ジャパンコンサートにて。右側が奥様と小林桂さん。(PHOTO/高橋弘)(右)

「何十年もやってきた人は先輩で、そういう人たちがいて自分があるのだと思っています」

若手メンバーを養成していらっしゃいますが、心がけていることがありますか。

小林:音楽を教えるのは本当に難しいです。音楽をやるのは上下がないところですから、ともすると、そこにあぐらをかいてしまいがちですが、音楽を離れたときには、人間として上下関係を考えないといけないのです。
 たとえば、ぼくのところで習っている生徒がある人のところで唄を唄わせてもらったときに、その人に「君のところで習っている人がうちで唄ったよ」と言われてびっくりすることがあるんです。なぜならば、先生であるぼくは、その伴奏してもらった人に、「ぼくの弟子がこちらでお世話になりました」と、お礼を言う立場だからです。ところが、生徒はぼくに習っていることを一切言わないんです。自分ひとりで上手になったと思っているんですね。生徒が報告をしてくれないから、ぼくまでその人に対して失礼なことになってしまうんです。それって、すごく重要なことだと思います。そこがいちばん困っていることで、そういうことが多々あります。


どの世界でも礼儀が大切だということでしょうか。

小林:最近つくづく思うことは、師匠あっての自分という気がします。最初東京に出てきてからジャズの学校にきてまったくわからなかったときに、とても懇切丁寧に教えてくれた先生がいます。その先生が教えてくれなかったら今の自分はないのだという気持ちで、今でも尊敬しています。
 我々の世界では、一歩ステージに上がったら対等な気持ちで演奏するけれど、一歩ステージを下りたら、何十年もやってきた人は先輩で、そういう人たちがいて自分があるのだと思っています。そういうことがきちんとできない人は、ある一瞬うまくいったとしても、長い目でみたときに果たしてどうかなと、ぼくは考えます。ぼくたちはいい加減で自由を装っているけれど、実はとてもデリケートだと思いますよ。一般的な規制がない分、本人がそういうことをきちんと理解して、敬う気持ちをもっていないとダメな世界だと思います。


「ひとりでやっているときよりも、人と一緒に音を出す瞬間がいちばん愉しいことです」

ジャズをやっていて愉しいと感じるときはどんなときでしょうか。

小林:今いちばんやりたいものはザ・室内バンドです。いちばん自分らしく、自分が求めるものを自然体で表現していきたいのです。自分で書いた譜面ですから、納得のいくように愉しくやっています。
 当然、勝手にやりたいことをやっている自分と、他人にフィットさせている自分とではかなり違います。自分が全部やってしまうと、自分の世界だけになっちゃいますが、他の人と一緒にやると、合わせていくなかでの自分の表現があるんです。それもまた愉しいんです。結局ぜんぶ愉しくやっているんですけどね(笑)。たとえば、そういうときに、これはこういう風にやりたい、こういう風にはやりたくない、なんていろいろ思うんですよ。それをもちかえって自分だったらこうやるぞ、なんてアレンジを考えると、またムズムズと愉しくなるんです(笑)。
 音楽は、国籍、年齢、性別、夫婦、キャリアなどの枠を越えてコミュニケーションができるんです。すべての枠を越えた人間と人間になっちゃうんです。自分の自信とか、相手のことを思う気持ちとか、いろんなことを思いながらやっています。ひとりでやっているときよりも、人と一緒に音を出す瞬間がいちばん愉しいことです。




TonTon インタビューを終えて

 お話しをお伺いしていると、好きなことを見つけることが人生ではとても大切であるように感じました。息子さんの桂さんはなんと3歳にして見つけ、そのまま好きな道に邁進していらっしゃるということです。でも音楽を離れたときは、しっかりと父親の顔になって話しが尽きません。いちばん自分らしく、自分が求める音楽を表現するためにアレンジし演奏することが、小林氏にとってはイコール人生の愉しみである、という熱い思いが伝わってきました。今後の益々のご活躍をお祈りいたします。


小林洋(こばやしよう)氏プロフィール

1954年4月30日新潟市生まれ。1982年女性コーラスグループ 「ザ・シャイニーストッキングス」を開始。83年1月「The Shiny Stockings」(ビクター)を発売 。86年1月音楽TV番組「ミュージックプラザ」の音楽プロデュース。88年6月岩崎敏信&ブルートロンボーンズにてCD「ムーンライトカクテル」にて編曲とピアノで参加。97年4月猪俣猛&His Symphonic Jazz Orchestra のCD「メモリー」 にて、前田憲男さんや小川俊彦さんと共に編曲とピアノで参加。10月CD「見果てぬ夢」編曲とピアノで参加。ここ数年は息子さんの小林桂(こばやしけい)さんの録音・コンサート等の音楽監督も務めている。2003年7月「小林洋&ザ・室内バンド」を結成し、活動を開始する。参加バンド:「栗田八郎トリオ」「根市タカオトリオ」「光井章夫カルテット」「柳澤慎一とジャパンオールスターズ」他、現在数多くのセッションをこなしている。奥様は有数のジャズ・ヴォーカリストの村上京子さん。お義父様はジャズ史に残るスティール・ギタリストの村上一徳氏。
小林 洋(よう)ホームページ