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ぴーぷるインタビュー Vol.13 世界最高峰ツール・ド・フランスの舞台で走る日を信じて
自転車ロードレースチーム 監督 浅田 顕 氏
自転車ロードレースの世界最高峰「ツール・ド・フランス」に憧れて、ロードレーサーになった浅田顕氏。現役を引退し、チーム監督となった彼は、ツール・ド・フランス参戦の夢が現実となる日に向かって、過酷なロードレースに挑戦し、走り続ける。
ツール・ド・フランスへの憧れが挑戦への情熱にかわる

自転車ロードレースは、どんなスポーツですか。

ツール・ド・フランスに日本チームを出場させる夢に向かって、新チームの指導に全力を注ぐ浅田監督。
浅田氏(以下、敬称略):自転車ロードレースは、スポーツのなかでも肉体的に一番過酷な競技です。ワンデーレースといって1日で終わるレースもあるし、ステージレースといって2日以上にわたって長時間レースを行い、総合成績を競い合う競技です。まさに体力勝負の戦いです。
 また、社会性が必要とされるスポーツでもあります。ロードレースは1チーム対複数チームによるチーム戦です。自転車で走るのは個人ですが、一人の力だけでは勝てない。ツール・ド・フランスだと19チームを敵に回して戦います。チーム間の社会はものすごく複雑で、力関係があり、駆け引きもすさまじいものです。

監督が自転車ロードレースを始められたきっかけは何ですか。

浅田:中学3年のときTVでツール・ド・フランスを観て、そのスケールの大きさと迫力に圧倒されました。それが、私のサイクリスト人生の始まりです。ツール・ド・フランスの第一印象が強烈で、生き方が決まってしまった(笑)。偶然にも中学の先生にロードレーサーがいたので、すぐに指導していただきました。本格的に始めたのは高校1年です。

身近にロードレーサーの方がいて運がよかったですね。

浅田:高校の自転車競技部では物足りず、中学時代の先生のいる強豪のクラブチームに所属しました。そこで実業団登録をし、厳しい練習を積みました。毎日登校前に競輪選手を目指す友人と短距離走行、下校後にはひとりで70~80kmの長距離走行の練習をしました。自転車ロードレースにどんどん惹かれていきましたね。高校2年の時に実業団登録をし、公式レースに挑戦しました。高校3年には良い成績を出すことができました。
 卒業後はブリヂストンサイクルに入社し、実業団選手として3年間さまざまな公式レースに参加しました。しかし、TVで観たツール・ド・フランスへの想いが忘れられず、会社を半年休職して、ロードレースの本場、ヨーロッパへと向かいました。

ヨーロッパで走ったときはどんな気持ちでしたか。

浅田:まず、ツール・ド・フランスの本場フランスに渡って、早速クラブチームに所属し、ロードレースに出ましたが、まさに目からウロコ状態。自分との力の差に愕然としました。私よりはるかに年上の方にも負けてしまって。しかし、数ヵ月で挽回し上位に入賞できるようになりました。ツール・ド・フランスに出場している選手と知り合うチャンスもあり、チームでの取り組み方も勉強になりました。改めて、ヨーロッパのロードレースで強くなりたいという気持ちが一層強くなりました。

帰国後はどうされましたか。

浅田:企業チームの限界を感じていたので、帰国後はブリヂストンを退社しプロ登録しました。1990年に日本で世界選手権があり、日本代表として出場したのが私のプロデビューです。同年、全日本チャンピオンになりました。1992年から再びフランス、ベルギーに渡り、プロチームに所属して各国のロードレースに挑戦しました。体力はもちろん戦術的に優れていないと、大きなレースでの上位入賞は厳しい世界です。結局4年後、選手から指導者に転向し、ツール・ド・フランスに日本選手を送り出そうと決意しました。28歳の時です。
人間の“体力と技量と戦術”の熾烈な戦いがレースの醍醐味

浅田さんを魅了したツール・ド・フランスとは?

ロードレースの本場ヨーロッパで長年培ってきた力を信じて、さらに大いなる闘志を燃やす。
浅田:自転車ロードレースの最高峰がツール・ド・フランスです。毎年7月に開催され、23日間かけてフランスを一周、約3,500kmを走破する過酷なレースです。3週間で21ステージ(21レース)を走り、総合タイムを競います。1チーム9人で20チームが一斉に走ります。チームのエースをより速く上位でゴールさせるために、残り8人(アシスト)がそれぞれの役割でエースをサポートしながら競走します。20チームの集団で自転車の数も多く、チームの戦略によって熾烈なレースが展開されます。
 キャラバン隊や取材スタッフの車や応援の人たちも大移動しますから、そのスケールは壮大です。ツール・ド・フランスの全日程を追いかけると、フランス一周の旅になります。

出場のための資格や条件等はどのようになっていますか。

浅田:毎年世界で開かれるレースを転戦しながらポイントを稼いでいきます。そして、年間で世界のトップ20チームに入れば無条件で出場できます。現在ではアメリカ、スペイン、イタリア、ドイツなどが強いです。残念ながら日本はまだ35~40位くらい。サッカーのワールドカップやオリンピックは国ごとの参加ですが、ツール・ド・フランスは世界最大のレースにもかかわらず、国ではなくチームで参加できるのが魅力です。

観客としてレースを観る場合、どのように観ると面白いですか。

浅田:まず選手を知ることです。どういうタイプの選手なのかを知り、その選手がどういう動きをするかを予測するのです。たとえば、この選手はスプリント力があって終盤に力を発揮する選手だとわかっていれば、それを期待してゴール地点で待てばいいわけです。逆に瞬発力はないけれど、最初から突進するタイプの選手もいます。選手を知ると、どんな理由でレース展開されたのかを読み取れて、興味深くレースを観ることができます。

レースの勝負の決め手はどんなところですか。

浅田:ロードレースは、空気抵抗に支配される競技でもあります。風圧が非常に影響するのです。自転車のスピードが時速50~60kmに上がると空気抵抗も増える。風圧をまともに受けると前に進まず体力も消耗しますから、いかに体力を温存しつつゴールするかで勝負が決まります。チームの選手たちは集団となって空気抵抗を避けて走り抜けていきます。まさに、人間と人間の“体力と技量と戦術”の熾烈な戦いのドラマが展開されます。
「ギャンブル」ではなく、「スポーツ」という意識に変えたい

日本とヨーロッパの自転車文化の違いを感じますか。

「PLUMELECレース」(フランス・ブルターニュ)沿道の観衆は世界選手権並みの賑わい。
ヨーロッパでは街中の人たちが応援してレースを盛り上げる。
浅田:自転車ロードレースは、日本では馴染みが薄いですが、とくにヨーロッパではサッカーに次いで人気があるスポーツです。人口1,000~2,000人の小さな町でも、年に1回はロードレースが開催されますし、週末には必ずどこかで公式レースが開催されています。道路沿いの応援がレジャーでもあるかのように、観戦するのが生活の一部になっています。
 フランスではサイクルイベントが年間20,000レースもあります。日本では200~300レースくらい。競技人口は、日本では約5,000人ですが、フランスでは約90,000人。また、子どもを育成するシステムが違うし、選手層も厚い。9歳くらいでロードレースを始める子どももいますし、60歳代で頑張っている選手もいます。

日本では、スポーツとしての自転車競技の位置付けが低いですよね。

浅田:ロードレースの位置付けには格段の差があります。ヨーロッパではロードレースが主流で、日本は競輪が主流です。どうしても自転車競技=競輪=ギャンブルのイメージが強く、スポーツ競技としての入口がすごく狭くなっています。子どもが自転車で競争して遊んでいる光景を見かけますが、自転車ロードレースにつながらないのが残念です。日本でも自転車ロードレース、できればツール・ド・フランスのイメージになればと願っています(笑)。注目度を上げるために、ツール・ド・フランスに出場しないと始まらないのです。そうしたスポーツ競技として啓蒙していきたいと考えています。

そのために監督として第二のスタートを切ったのですね。

浅田:実は引退する2年前に厚木でクラブチームを立ち上げ、選手兼監督をしていました。古巣のチームブリヂストン・アンカーでもコーチを兼任していたのですが、98年にブリヂストンサイクルから監督になってくれと頼まれて、監督を8年務めました。しかし、どうしてもツール・ド・フランスの夢が捨てがたく(笑)、チームの有力選手たちを引き連れて、独立しました。
選手としても監督としても勝利は最高の喜び

チームの活動はどちらでしているのですか。

「CHATEAUROUX 2006年シャトールークラシック」(フランス・サントル)上位3名。3位に入賞した福島晋一選手(写真左)。
浅田:ヨーロッパは風土や交通事情などロードレースの環境に恵まれています。日本は環境が違うので、ヨーロッパに拠点を置き、強豪チームが参加する公式レースを転戦していかなければ強くなることはできません。
 チームは南フランスのトゥールーズを生活拠点に練習を重ねています。各国のレースにも遠征をしています。家族は日本にいますが、日本にいられるのは年間の3分の1くらいです。

ヨーロッパの活動中で楽しいことはなんですか。

浅田:ヨーロッパ滞在中は、レースの苦しさと楽しさが背中合わせです。さまざまな人との出会いや各国の美味しい料理を味わえるのはとても楽しいです。活動中はチームワークとか選手同士の人間関係など難しいことがありますが、それを克服して成績を出せた時、その達成感もまた楽しいものです。成績を出せない時は、あれこれと改善策を練ります。すると、レース前に不思議と次はいけるなと直感することがあって、この辺から楽しくなりますね。そうして成績が出せた時は本当に嬉しいです。こうした過程に一番やりがいを感じます。

チームワークを作り上げるのも苦労するところですね。

会場のビラージュでコーヒータイム。中央が監督、本番レース前の緊張を和らげながら戦略の確認をする。
浅田:チームをまとめるという点でも、最も難しいとされるスポーツです。表彰台に立つ勝利者は一人です。他の選手たちに自分を犠牲にしてエースのために走る意義をきちんと理解させるのが難しいところです。チーム内でも選手たちのライバル意識があって、与えられた役割を超えて走ろうとしますから、常に戦術や役割を変えます。基本的には一人ひとりの力の結集です。勝つための態勢を整え、選手たちのチームワークを強固にするのが監督の力量です。

レース中の選手たちへの指示はどのようにするのですか。

浅田:私のチームでは大まかな戦略を決めてレースに望みます。レースは先導車、選手、その後に監督が乗るチームカーが続きます。レース中は、監督から選手にトランシーバーで指示を出すことができますが、チームカーからは自分のチームは見えず、ゼッケン番号とか、先頭にいる選手とのタイム差の情報しか入ってきません。だから選手たちは瞬時の判断は自分で決めます。キャプテンの役割をする選手を中心に動いていきます。敵は1チームではなく複数のチームですから大変です。

監督としての気持ちは、現役選手の時とは違いますか。

「2006ジャパンカップJAPANCUP ROAD RACE」(日本・宇都宮)
スタートからアタックをかける福島康司選手(写真中央)。一人ひとりの体力と技量と戦術を武器にチームで走り抜く。
浅田:現役時代も監督となった今でも勝利の喜びは同じです。監督は実際自転車に乗っていませんが、いつも選手と一緒に走っているような気持ちです。自分の思惑どおりに走ってもらえない時は残念ですが、チームがまとまった時は面白いし、まとまらない時は辛い。選手がそれぞれの役割を果たし、うまく動いてくれた時は本当に嬉しいです。
 実業団の時には企業からのレースの予算がありましたが、今は自分のチームで賞金を獲得していかなければなりません。監督としての責任感と緊張感は、現役選手の時と全然違います。

今後の目標はなんですか。

浅田:自分が監督する日本チームでツール・ド・フランスに参戦するのが目標です。具体的には、2010年までに。日本での自転車競技の知名度を高め、従来の競輪のイメージからツール・ド・フランスに変えることができれば、私たちの役割も広がっていきます。約10年間選手の指導をしてきましたが、私の現役時代の経験や失敗で得たことを次の世代に生かし、時間をかけずに最短距離で高水準の技量を持つ選手を育成していきたいです。スポーツとしての自転車ロードレースの啓蒙と選手の育成が、私のサイクリスト人生の使命と考えています。


インタビュー後記
浅田監督は過酷なロードレースを転戦してきた人とは思えないほど爽やかな印象でした。子どもの頃の憧れが大きな目標と変わり、その夢に向かって走り続ける監督の情熱に敬服します。夢を持ち続け、挑戦していくことの素晴らしさを改めて感じました。世界最高峰ツール・ド・フランスの舞台で、日本チームが走る日を楽しみにしています!


浅田顕(あさだ・あきら)プロフィール

1967年、東京都生まれ。高校卒業後、自転車競技部(現チームブリヂストン・アンカー)を有すブリヂストンサイクル株式会社への実業団選手として入社。その後、欧州レースへの憧れから単身欧州へ渡り、フランスのアマチュアクラブチームに所属し、ロードレースを学ぶ。1990年宇都宮で行われた世界選手権ロードレースをきっかけに国内プロ登録。1996年からチームブリヂストン・アンカーを中心にロードレースチームの運営と選手の指導に専念する。
2006年 株式会社シクリズムジャポンを設立し、チーム監督に就任。

選手時代の主な戦歴

1990年 全日本プロロードレース優勝
1994年パリーツール完走 (ワールドカップ)

監督としての戦歴

欧州でUCIポイントを獲得できる日本人チーム作りを達成
欧州UCI公式戦(プロ・アマオープン)にて日本チーム初の優勝
欧州UCI公式戦プロロードレース(クラス1)にて日本チーム初の優勝
アテネ五輪、世界選手権ロードにてプロ・アマオープン後の初完走選手を輩出
全日本選手権ロード優勝4回

Equipe Asada

http://www.cyclisme-japon.net


Equipe Asada後援会発足のお知らせ
自転車ロードレースの最高峰「ツール・ド・フランス」への出場を目指し、浅田顕氏が率いる期待の新チーム「Equipe Asada」。この新チームをサポートするため、2006年12月10日(日)に「Equipe Asada後援会」(Equipe Asada Supporter's Organization)が発足致しました。

2006年12月10日
「Equipe Asada」後援会発足式記念パーティ(赤坂SUBIR Banquetにて)浅田監督(写真中央)と新チームの選手

Equipe Asada後援会

http://www.easo.jp/

Equipe Asada

http://www.cyclisme-japon.net/

ジャパンカップ サイクル ロードレース

国内で唯一プロツアーチームと戦うことができるジャパンカップ。天候にも恵まれ会場には多くのサイクルファンが詰めかける中、チームは福島晋一選手と宮澤崇史選手の2人をエースに立て表彰台を目指しスタートした。

「2006ジャパンカップ サイクル ロードレース」
2006年10月22日開催 栃木県宇都宮市森林公園周辺
151.3km(14.1km×10周+10.3km1周)
公式サイト:
http://www.japancup.gr.jp/index.html

山岳賞を獲得した福島康司選手

 プロツアー4チームは、イタリアで行われたツール・ド・ロンバルディアの上位選手をエースに立ててくることを予測し、戦略を組んだ。9月からレース日程が空いたため、トレーニングで調整ができている宮澤崇史選手と福島晋一選手を軸に展開した。
 スタートから福島康司選手がアタックした影響で、日本勢9名での逃げ(先頭)グループが形成され、後続は逃げを見送ったプロツアーチームのアシスト勢が脚を使う展開となる。6周目の山岳賞では、福島康司選手がトップで通過し、先頭グループは淡々と進む。しかし、プロツアー勢もレース後半の勝負どころまではきっちり逃げ、グループを射程距離に置き、最終段階のエース同士の勝負に持ち込んだ。最終回に先頭グループは吸収され、最後の登りが勝負となる。しかし別格のスピードを持つ5名のアタックにチームは反応できず、6位以下のグループに取り残され表彰台を逃してしまった。ゴールでは7位に宮澤崇史選手、10位に福島晋一選手が入った。
 目標を逃して残念だが、7位の宮澤選手は今回のレースのために準備を積み苦手コースを克服したことを評価したい。

山岳賞3名はすべて日本選手が獲得
山岳賞を獲得した福島康司選手がインタビューを受ける

成績

1位 リカルド・リッコ(イタリア/サウニエドゥバル)3時間58分18秒
2位 ルジェーロ・マルツォーリ(イタリア/ランプレ)+0秒
3位 ウラディミール・グゼフ(ロシア/ディスカバリーチャンネル)+0秒
4位 ステイン・デヴォルデル(ベルギー/ディスカバリーチャンネル)+0秒
5位 シルヴェスタ・ズィマイド(ポーランド/ランプレ)+10秒
6位 マヌエーレ・モーリ(イタリア/サウニエドゥバル)+41秒
7位 宮澤崇史+41秒
8位 ジャビエル・フロレンシオ(スペイン・ブイグテレコム)+43秒
9位 野寺秀徳(スキル・シマノ)+57秒
10位 福島晋一+57秒

・・・15位新城幸也+57秒、22位福島康司+4分22秒、30位清水都貴+4分54秒
〔6周目山岳賞〕福島康司

出走65名、完走42名


参加チーム(13チーム)

ランプレ・フォンディタル(イタリア)
サウニエデュバル(スペイン)
ブイグテレコム(フランス)
ディスカバリーチャンネル(アメリカ)
スキル・シマノ(オランダ/日本)
愛三工業
ミヤタ・スバル
マトリックス
日本ナショナルチーム
香港ナショナルチーム
中国ナショナルチーム
台湾ナショナルチーム
シクリズムジャポン(新城幸也、福島康司、福島晋一、宮澤崇史、清水都貴)