- HOME
- 繋がる
- 年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生
- Vol.21 原田忠幸 氏
原田氏(以下、敬称略):さまざまな場所で演奏をしています。主に前田憲男さんが主宰する「ウィンドブレーカーズ」で仕事をしています。それ以外ではジャズ・ライブハウスやコンサート、またスタジオでレコーディングなどの仕事も手がけています。
(注①)原田忠幸氏。1936年7月30日京都生まれ。父親や兄弟の影響から音楽の世界に入る。「原信夫とシャープスアンドフラッツ」や「ウエストライナーズ」などで活躍。その後渡米、ロサンジェルス、ラスベガスで活動し、1971年から日本に居を構え、自己のグループ「ザ・ハーツ」を結成しつつ、フリーでTV、コンサート、ライブハウスでの演奏と多方面で活躍中である。また、海外アーティストからの信用も厚くフランク・シナトラ、マレーネ・デートリッヒ、フォー・フレッシュメン、サミー・ディヴィスJr.、ライザ・ミネリ、ヘレン・メリル、サリナ・ジョーンズ、ローズマリー・クルーニー、アニタオディなど多くの海外アーティストと共演した。
(注②)原田さんの父親はドラマーのジミー原田さん(本名:原田譲二)(1911~1995年)。戦前に京都で自楽団を持ち、関西圏で人気を博した。戦後、上京して各方面で活躍、後年「ジミー原田&オールドボーイズ」を編成、人気バンドになった。長兄はドラマーの原田イサムさん。現在も現役としてライブハウスやコンサートに出演、精力的な活動を行なっている。
原田:とんでもない。子供の頃は野球、野球で過ごしました。できれば野球選手になるのが夢でした。それが、戦後父の仕事の都合で上京することになり、そうも言っていられなくなって、音楽の道を歩むことになったのです。京都時代、家に親父のバンドメンバーが多く居候していました。環境がそうですから、ミュージシャンになるのは、自然といえば自然なスタートでした。
僕の父は英国人でしたから、僕たち兄弟は子供の頃、よく意地悪やいじめに遇いました。仲間はずれになることもあって、楽器をいじることができたのは、ある意味幸いでした。音楽があったからこそ、変な道に進むことは避けられました(笑)。
しかし父は、社会的にはとても硬い面がありましたね。だから当時も人気があったパチンコや、賭け事は一切やりませんでした。面白い話があります。一度「パチンコに行ってきた」というから、何故と聞いたら、「タバコ屋がなくて、パチンコ玉を買ってタバコと交換してきた」と(笑)。僕は父の仕事に対する厳しさとか、誠実さは常に目にしていました。父の背中を見て育ちました。
原田:中学を卒業すると、親父がクラリネットを買ってくれたのです。父の仕事の関係で、手ほどきは当時人気絶調だったレイモンド・コンデ(注③)さんに教わりました。厳しい指導でした。その縁でゲイ・セプテットのバンドボーイをやりながら、先輩たちのテクニックを学んでいきました。その頃のレイモンド・コンデさんのゲイ・セプテットの人気は爆発的で、それがジャズブームの走りになったのです。2年ほどバンドボーイをやりました。
(注③)レイモンド・コンデ(1916~2003年)。日本のジャズを育てたといっても良いフィリピン人のクラリネット奏者。コンデ3兄弟(レイモンド・コンデは末弟)は戦前に来日して、戦後も日本のジャズ界に大きな影響と足跡を残した。特にナンシー梅木が専属歌手だったゲイ・セプテットは大人気で、日劇で行なわれた「ゲイ・セプテットを含んだジャズコンサート」では熱狂的なファンが劇場を取り巻いたという伝説がある。
原田:戦後になってまだ間もなく、ジャズブームになる直前でした。南里文雄とホット・ペッパーズ、渡辺弘とスターダスターズ、ゲイ・クインテットなどがバンドを立ち上げていましたが、一般のジャズメンは仕事も少なく、苦労した時代だったと思います。
一方、力のある日本のジャズプレーヤーは進駐軍の仕事で一杯でした。毎日、東京駅北口や新宿駅南口に行けばメンバーをアレンジする人が居て、米軍の各方面のクラブに派遣されました。当時はまだ食糧事情も悪く、米軍での仕事はギャラ以外に、コーラやハンバーガーなども食べられて、それなりに恵まれた環境でした。昭和25、6年頃で、その後は空前のジャズブームになっていきました。
〈写真左〉クリフサイド・クラブで演奏していた頃、楽屋で練習をする原田氏。この頃はアルトサックスを吹いていた。
原田:東京丸の内の米軍のバンカスクラブに、コンデさんのバンドが出演していました。原信夫さんは昭和26年にシャープスアンドフラッツを立ち上げ、原さんもそのクラブで演奏していて、控え室が一緒だったものですから、そこで知り合いになりました。僕はコンデさんのバンドボーイを辞めた後、いくつかのバンドで活動していましたが、ある日、偶然にも原さんと電車の中で再会したのです。そこで、「うちのバンドでバリトンサックスで来ないか」と原さんに誘われて、僕はシャープスアンドフラッツに入団しました。
原信夫とシャープスアンドフラッツは日本で大人気のビッグバンドでした。日本で初めてバリトンサックスを採用することになって、僕がやることになったのです。しかし、僕はバリトンサックスを持っていなかったので、原さんがどこからか借りてきてくださいました。最初は手本もなく、音が出なくて苦労しました。使えるようになると、その面白さが分かってきました。 バリトンサックスが入ると、フルバンドの音が全然違ってきます。なんと言うか、音に厚みが出てくるんですね。それ以降、バリトンサックス一本、ほとんど独学でやってきました。シャープス時代、江利チエミさんのバック演奏をよくやった思い出があります。シャープスアンドフラッツには2年弱お世話になりました。
|
原田:昭和32年に「ウエストライナーズ」に入団しました。「ウエストライナーズ」はスタン・ゲッツ、リー・コニッツなどの白人サックス奏者などのスタイル、ウエスト・コースト系の音を目指して立ち上げたバンドです。この前身は高見健三さんが率いる「ミッドナイトサンズ」でしたが、事情があってリーダーが西條孝之介さんに代わって、3管編成で再編成されたバンドでした。当時のメンバーは(故)五十嵐武要さん(D)、五十嵐明要さん(AS)、前田憲男さん(P)、福原彰さん(TP)、金井秀人さん(B)、そしてリーダーが西條孝之介さん(TS)と錚々たるメンバーでした。全アレンジは前田さんがして、毎日のように曲数が増えていきました。数年後、「猪俣猛とウエストライナーズ」になりました。
その頃僕はバリトンサックス奏者として、秋吉さんのリハーサルバンドをしていたので、松本英彦さん(TS)、宮沢昭さん(TS)、岡崎広志さん(AS)、鈴木重男さん(AS)、伏見哲夫さん(TP)、日野皓正さん(TP)、鈴木弘さん(TB)など当時の日本を代表するジャズメンで編成されたオールスター・ビッグバンドのメンバーとして参加しました。1曲は秋吉さんの作曲ですが、他はすべてチャーリー・マリアーノさんの作曲・アレンジによるものです。もう40年以上も前になりますが、難しかったのを憶えています。昔のジャケットならもっと良かったのに…。
原田:やめた翌月に渡米をしたのですが、野球選手がメジャーに挑戦したいのと同じような気持ちがあったのと、当時の恋人(雪村いづみさん) がアメリカで唄いたいという夢があって、その実現のため同行したのです。しかし厳しいアメリカの音楽産業のなかで、仕事を見つけるのは本当に大変なことでした。ハリウッドの組合だけで、サックスプレーヤーが5千名近く登録されているのですから。そのうち音楽で食べていけるのは100人くらいの世界です。だから当初、仕事を得るのは至難の業でした。
その時、手助けをしてくれたのは人気女優のシャーリー・マクレーンさんでした。L.A.のサンタモニカにアパートを借りていたのですが、シャーリー・マクレーンさんには公私とも大変お世話になりましたね。毎週のようにお邪魔して、娘をプールで遊ばせながら手伝いもしました。 マクレーンさんの自宅で一番驚いたのは、正餐(ディナー)でした。個人の家でこんな豪華なディナーがあるなんて、本当のセレブな生活というのはこういうものなのかと度肝を抜かれる思いでした。家内もマクレーンさんのお陰で、アメリカの人気テレビーショーに度々招かれ、出演しました。ジョニー・カースン・トゥナイトショー、エド・サリバンショー、ダニー・ケイショー、ダイナ・ショアショー、マイク・ダグラスショーなどです。多分、アメリカのショーに出演した日本人歌手では一番多かったのではないでしょうか。 僕は少しずつですが人脈もでき、スタジオの仕事を中心にショーや映画音楽の伴奏などの活動をするようになりました。アメリカの音楽産業をみてつくづく感じたのは、スケールの大きさでした。音楽的、技術的落差はもとより、設備の点でも日本と比べ別格というか、その差の大きさを感じないわけにはいきませんでした。
原田:ネバタ州リノでの仕事は、その当時大変有名なシャーターレストランハウスクラブでした。その時のショーは、名作『雨に唄えば』でジーンの相手役になったドナルド・オコーナーさんのショーです。オコーナーさんはダンス・唄・俳優と黄金時代のハリウッドの大スターです。彼とフレッド・アステアー、ジーン・ケリーの3人は今でも伝説になっています。オコーナーさんはとても魅力的な方でした。そのショーに雪村いづみさんはヴォーカリスト、僕は伴奏で出演していました。
ある時、オコーナーさん夫妻とコーラスの人たちに「君たち結婚したの?」と聞かれて、僕たちは「まだです」と答えると、「リノにいる間に結婚式をあげよう」ということになって、オコーナーさん夫妻とコーラスの人たちが立会人になってくださり、無事結婚式を挙げることができました。大感激でした。式の前日に、独身最後の日ということで男性は男性、女性は女性に分かれて、翌日のチャペルの式の時まで隔離するのです。一晩中酒を飲んだり、話をしたりで、翌日の式には僕はまだ酔っていました(笑)。このような結婚式はアメリカ全土のしきたりではないのでしょうが、おかげさまで心温まる貴重な想い出となりました。
原田:その頃僕たちはロサンジェルスのサンタモニカのアパートに住んでいました。オコーナーさんはサンタモニカの最高級地に住んでいて、僕たちのアパートから車で10分くらいの距離だったのでランチに誘っていただいたこともあります。また、僕では絶対行けないような高級ゴルフクラブにも連れていっていただいたことがあります。オコーナー邸から10分くらいでサンセット・ブルーバードの海に面したきれいなコースでした。その素敵なオコーナーさんも近年お亡くなりになり、長い歳月が経ったのだとしんみりした気持ちになります。オコーナーさんには本当に感謝しています。
原田:そうなんです。かなり大変でした。でも日本から絶えず友達が来ていて、その対応も結構大変でしたね、正直(笑)。アメリカのアパートの一部屋は、日本の倍以上のスペースがあるわけで、友人達は「ター坊はアメリカでよい生活しているんだ。こんな立派なアパートに住んでいるのだから」と思ったようでしたが、実際、それは大変なものでしたよ。人に言えない苦労も結構ありましたよ(笑)。でも、アメリカでの生活は苦労もあったけれど、幸せで楽しいことも沢山あって、良い経験でした。
原田:そうなんです。アメリカの永住権も取得して、家も購入しました。またハワイでの仕事もありましたし、ラスベガスで腰を落ち着けるつもりでした。しかし、家内の事務所から、帰国要請の連絡が度々はいって、やむなく一時帰国することになったのです。もちろん、もう一度戻るつもりでしたから、家も売却せず知人に管理を頼んでの帰国でした。しかし、帰国したら仕事のオファーが多くて、戻るチャンスを逸してしまったのです。数年後、とうとうハワイで永住権を放棄することになったのは、断腸の思いでしたね。
その後、平成6(1994)年に「猪俣猛オールスターズ」のアメリカ・ニューヨーク公演に参加しました。会場はカーネギーホールとアポロシアターでしたが、久しぶりにアメリカの空気に触れ、懐かしかったですね。 |
原田:アメリカでは、音楽的に上手いだけで終わってしまう人がいくらでもいます。アメリカで成功するためには、いかに個性を出すかが勝負です。たとえば、テレビだと誰が演奏しているか一目でわかりますが、マイルス・デイビスやジョン・コルトレーン、デューク・エリントンバンドなどは、ラジオで音を聴いただけですぐ演奏者がわかるわけです。なぜなら強烈な個性があるからです。アメリカではそれぐらいの個性が必要だということです。アメリカのミュージシャンは上手いのは当たり前。だけど、プラス個性がないと這い上がっていけないということを実感しました。
原田:アメリカで学んだことを日本で試すために、僕はすぐに「ザ・ハーツ」を結成したのです。なぜいきなり作ったかというと、今までとは違う、僕がイメージした個性を出したかったからです。それまで日本では考えられなかったトランペット4本、サックス2本という変わった編成のバンドです。また平行して前田憲男さんが主宰する「前田憲男とウィンドブレーカーズ」にも参加しています。このバンドも日本ジャズ界のトップクラスのミュージシャンが集まっていますから、いつも素晴らしい迫力と音色で皆さんが喜んでくれています。機会があったら是非ライブハウスにいらしてください。きっと満足いただけると思います。
原田:僕自身プロとして演奏し始めてから、今年(2010年)で55年目を迎えます。これまでご指導、お世話になった先輩(故人を含む)がたくさんいらっしゃいます。現在もプレーをしていられるのは、素晴らしい先輩、同僚に助けられているからです。
年齢順でいくと、原信夫さんをはじめ、西條孝之介さん、五十嵐明要さん、中牟礼貞則さん、稲垣次郎さん、前田憲男さん、稲葉国光さん、田中彰さん、猪俣猛さん、杉原淳さん、その他大勢の方々に感謝の気持ちでいっぱいです。少しでも長く楽器を吹いていられるようにからだに気をつけます。
〈写真右〉1974年6月、フランク・シナトラの武道館コンサートで伴奏を務めた。
原田:ジャズと一緒に人生を歩んできたようなものです。親しい仲間と一緒に、好きな曲を思いっきりプレーしている時が僕にとっては至福の時です。これからも吹けるかぎりいつまでも吹いていますよ、僕は(笑)。是非一度ライブ会場にいらしてください。ジャズは愉しいですよ・・・。
*本当に長時間有難うございました。益々のご活躍をお祈りいたします。
●本文中の写真はすべて原田忠幸氏にご提供いただいております。
|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
|
年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生
- Vol.24 浅田顕 氏
後藤義治 氏 - Vol.23 萩原 かおり 氏
- Vol.22 堀江眞美 氏
- Vol.21 原田忠幸 氏
- Vol.20 齋藤佳名美 氏
- Vol.19 花れん 氏
- Vol.18 宮澤崇史 氏
- Vol.17 常磐津千代太夫 氏
- Vol.16 尹貞淑 氏
- Vol.15 土屋郁子 氏
- Vol.14 内野慶子 氏
- Vol.13 浅田顕 氏
- Vol.12 桜林美佐 氏
- Vol.11 出石尚三 氏
- Vol.10 只浦豊次 氏
- Vol.9 和田三郎 氏
- Vol.8 小林洋 氏
- Vol.7 永井明 氏
- Vol.6 ラモン・コジマ 氏
- Vol.5 母袋夏生 氏
- Vol.4 吉村葉子 氏
- Vol.3 伊達晟聴 氏
- Vol.2 辺真一 氏
- Vol.1 柳澤愼一 氏
年輪を重ねることはそれなりに愉しい人生
- Vol.24 浅田顕 氏
後藤義治 氏 - Vol.23 萩原 かおり 氏
- Vol.22 堀江眞美 氏
- Vol.21 原田忠幸 氏
- Vol.20 齋藤佳名美 氏
- Vol.19 花れん 氏
- Vol.18 宮澤崇史 氏
- Vol.17 常磐津千代太夫 氏
- Vol.16 尹貞淑 氏
- Vol.15 土屋郁子 氏
- Vol.14 内野慶子 氏
- Vol.13 浅田顕 氏
- Vol.12 桜林美佐 氏
- Vol.11 出石尚三 氏
- Vol.10 只浦豊次 氏
- Vol.9 和田三郎 氏
- Vol.8 小林洋 氏
- Vol.7 永井明 氏
- Vol.6 ラモン・コジマ 氏
- Vol.5 母袋夏生 氏
- Vol.4 吉村葉子 氏
- Vol.3 伊達晟聴 氏
- Vol.2 辺真一 氏
- Vol.1 柳澤愼一 氏